第124話 「広島愛の川」物語
本誌『リベラルタイム』2025年8月号のこの欄で「一本の鉛筆」物語を取り上げた。
「一本の鉛筆があれば
私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く
一本の鉛筆があれば
八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば
人間のいのちと私は書く」
人類史上初の被爆の惨劇から30年が経とうとしていた1974年、広島テレビ主催の「1回広島平和音楽祭」が開催された。「歌謡界の女王」美空ひばりが「一本の鉛筆」を歌い、それを加藤登紀子、二階堂和美等、多くの歌手がカバーしてきた反戦歌だ。
今回は「広島 愛の川」物語をお伝えしたい。
「愛を浮かべて 川流れ
水の都の 広島で
語ろうよ 川に向かって
怒り、悲しみ、優しさを
ああ、川は 広島の川は
世界の海へ 流れ行く」
「愛する我が子に 頬ずりし
姿川面に 写す日々
誓おうよ 川に向かって
怒り、悲しみ、優しさを
ああ、川は 広島の川は
世界の海へ巡り行く」
80年前のあの日、多くの人が熱線に焼かれた身体を冷やすために飛び込んだ元安川。その川辺で今年も灯篭流しが行われた。亡くなった人の供養のため、肉親らが灯篭にそれぞれの想いを書き込み、川面に流し、夜遅くまで続いた。
それを見おろす「おりづるタワー」の屋上から加藤登紀子、島谷ひとみ、二階堂和美、TEE、HIPPYらの歌手がそろい、170人の子ども達が加わって「広島 愛の川」を朗々と歌った。大合唱は広島テレビで生中継され、極めて大きな反響を呼んだ。
「広島 愛の川」の作詞は、原子爆弾の惨状を描いた漫画『はだしのゲン』の作者・中沢啓治だ。『はだしのゲン』は中沢が自らの被爆体験をもとに原爆の恐ろしさ、命の尊さ、平和への願いを込めて描いた反核漫画の決定版ともいえる作品、世界25カ国で読み継がれている。
中沢は2012年にがんで亡くなる。妻ミサヨさんが遺品整理をしていたところ、一遍の詩が見付かった。人づてに知った作曲家・山本加津彦はその詩の強いメッセージ性に突き動かされた。ミサヨさんとは面識がなかったが直談判、話し合いを重ね、ミサヨさんは詩を山本に預けた。山本は曲をつけ、「この詩を対等に歌いこなせる歌手は加藤登紀子」と考え、直接交渉、中沢夫妻が加藤のファンだったこともあって14年に「ユニバーサルミュージック」からリリースされた。また、加藤の提案で『はだしのゲン』の一部を「語り」として追加、子ども達による合唱バージョンも制作された。それが15年から灯篭流しの場で、歌い継がれてきた。ただ、この曲は全国では必ずしもポピュラーではない。加藤が曲のテーマ性から、自らのコンサートでも時と場所を厳選して歌ってきたからだ。
昨年秋、私は山本と話す機会があった。「バラの街」で知られる広島県福山市が2024年5月に「世界バラ会議」を開催するにあたり、その事前イベントとして24年加藤登紀子の「百万本のバラ」コンサートを企画した。その際、山本と加藤の提案で、地元の小中学生による合唱付きで「広島愛の川」も歌ってもらったところ、大きな感動と反響があった。そこで作曲家の山本と、この「愛の川」について、「失礼だが、私も広島に住んで10年を超えるが、この歌の存在は知らなかった。これまでの活動には敬意を表するが、地道にやっているだけでは広がりが生まれない。メディアの力を利用してはどうか。広島テレビとして生中継を企画したい。テレビを通じてこの曲を広く知らせ、全国に配信もしたい」と提案、実現に至った。
そして今年8月6日は多くのボランティアや子ども達が「広島愛の川プロジェクト」のTシャツを着て、灯篭流しで歌った後、対岸の「おりづるタワー」に移動し、屋上で広島の空に向かって大合唱。現場に集まった聴衆はもちろん、テレビの生中継を見ていた視聴者からも「涙ながらに見ていました」というメールが届いた。ミサヨさんも駆けつけ、終了後はお互いに涙ながらに喜び合った。しかし、山本は事前の企画、準備、ボランティア集め、合唱練習、資金協力のお願いの大変さと、今回の達成感から「今年で最後にしたい」という。私は「この曲は子ども達の合唱で引き継がれていくことが大事だ。何らかの形で続けられないか。被爆80年を終わりにしてはならない」と伝えている。山本と話すことになろう。
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