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2023年6月

2023年6月30日 (金)

徒然エッセイ第81話 インサイドアウト G7サミットと広島テレビ

以下はG7サミット終了を受け、広島テレビが社報臨時号として「広島サミット特集」を発行した際、サミットに表裏様々な形で関わりを持ったため、多少のインサイドストーリーを綴った原稿をそのまま転載したものである。

 

インサイドアウト  G7サミットと広テレ

                                                     顧問  三山 秀昭

 G7が各国持ち回り開催である以上、2023年の「日本での開催」は何年も前から決まっていた。ただ、2021年秋に岸田文雄政権が誕生したので「広島での開催になるかもしれないな」と推測した。そこで以前から個人的に構想を温めていた出版の準備に取り掛かった。「世界の首脳が広島に集うのなら、これまで被爆地を訪れた政治リーダー、ローマ教皇、各界の著名人らがどんな言葉を残したかを調べよう」と思った。平和記念資料館(原爆資料館)に何度も足を運び、長崎にも3回出かけ、取材を重ねた。それが22年暮れに出版した「世界のリーダー185人 ヒロシマ、ナガサキで発した言葉」(南々社)に繋がった。この本は「G7広島サミットへの視座」の帯を付けて発売され、広島本大賞にノミネートされた。取材の過程で、1992年にゴルバチョフ・ソ連元大統領が広島訪問した際、広島テレビがゴルバチョフと市民との対話集会を開催した詳細な資料が出てきた。これが後に実現するG7広島サミットに関する読売新聞主催のシンポジウム企画のアイデアに繋がった。

 広島テレビの記者が「サミット広島開催へ」を特報したのが5月19日、その直後の23日、バイデン米大統領訪日時に岸田首相は「広島開催」を発表した。ただ、これを「首相は地元広島を開催地に決めた」と“永田町的”な視点で捉えるのは矮小な見方だ。それでは「広島サミット」の本質を見失う。首相はロシアのウクライナ侵略(22年2月24日)の1週間後に決断した。「広島ほど平和へのコミットメントを示すのに相応しい開催地はない」と判断した。言葉通りだ。ただ、広島=被爆地開催である以上、「唯一の原爆投下国」アメリカなど各国の了解が必要だった。アメリカは2016年のオバマ米大統領による広島訪問の先例があり、まもなくクリアできたが、ホワイトハウスからは「オバマ大統領の広島訪問の時と同じレベルで」と資料館視察などにタガをはめられた。また、外交・安全保障政策では米英とは一線を画すフランスに対しては神経を使って複数回丁寧に説明した。(詳細は「経済春秋」6月号、外交専門誌「外交」79号に書いたので関心のある人は参照を)

様々な仕掛け

 広島開催の正式発表直後から広テレは動き出した。飯田社長を中心に報道制作局、社長室関係者らで相談した。そこで提案したのがゴルバチョフの対話集会からヒントを得たシンポジウムの開催だ。「やるなら読売新聞と組んで大掛かりにやろう。また、広島でやる以上、被爆者の参加は必須だ」(社長)との考えで、社長が読売本社と交渉、OKが出た。被爆者は小倉桂子さんに絞ってシンポでの講演の交渉を進めた。新延監査役(広大出身)のパイプを使って広島大学の「特別協力」も取り付けた。

 一方、私が広島日仏協会の会長で、飯田社長がフランスの在広島名誉領事である事を踏まえ、昨年7月にはマクロン仏大統領への単独インタビューを申し入れた。「OKならフランス語が話せる飯田社長がパリのエリゼ宮まで出向く」とフランス政府に気概を見せた。ただ、成功の確率が低い“ダメ元”の話なので、半年間は二人だけの秘め事にしていた。インタビューは実現しなかった。内外の多くのメディアもトライしたが、マクロン大統領は一切応じなかった。 

国連で首相に折り鶴を持ってもらう

 広島テレビではサミット取材の経験者は、社長と私を除けば皆無だった。そこで7月に「広テレゼミナール」を開催、「G7のGとは何の略か?」という「基本のキ」のクイズから勉強会をスタートさせた。多くの社員が夜の勉強会に参加した。私が2回分講師役を務めた。

会社全体としてシンボリックなキャンペーンができないか、中堅、若手が検討を進めていた。7年前の「オバマへの手紙」のような何かを仕掛けようと議論が続いた。一方、岸田首相が国連本部での「核不拡散条約」(NPT)再検討会議に出席する情報を得て、「国連では折り鶴を手にスピーチしてもらえないか」と寺田稔・核軍縮不拡散担当総理補佐官を通じて岸田首相に要請した。首相も快諾してくれ、国連本部で折り鶴片手に「広島アクションプラン」を訴えた。

 秋に入り、「覚えておこう。」という折り鶴キャンペーンが大展開し始める。幼稚園や小中高生、若者、被爆者や首相、サッカーWCの森保監督、カープの新井監督など多くの人に折ってもらい、その数6万羽を超えた。それをサミットのメディアセンターに飾り、海外メディアからも注目された。ただ、私はそれだけではパンチに欠けるし、不十分だと思っていた。そこで政府に「首脳会議のメインテーブルに折り鶴を山積みにできないか」と提案した。外務省は「サミットの討議テーマは経済など様々。平和の象徴の折り鶴を通しで置くのはどうか」と難色を示した。そこで首脳たちが資料館で芳名録に記帳するデスクに置いてもらうことを提案、実現した。G7首脳、招待国、さらにはウクライナのゼレンスキー大統領も記帳し、彼らの言葉と共に後年まで映像や写真に折り鶴が残る。なお、バイデン米大統領は別に2羽の折り鶴を持ってきた。このため、各国首脳の前には広島テレビが集めた折り鶴が4羽ずつ置かれたが、バイデン大統領の机には6羽が飾られた。

前夜のスクープ

報道現場は「サミット、宮島でも開催」や「首脳の資料館視察固まる」など特報を続けた。ただ、首脳が被爆者の証言を聴くかどうかが最後まで焦点として残った。首相周辺に探りを入れても「ギリギリまで調整する」と手の内を明かさない。しかし、広テレはサミット前夜の5月18日夜、ニュースZEROで「小倉桂子さんが被爆者として首脳に証言」をスクープした。NHKが翌朝のニュースで追いかけた。小倉さんはシンポジウムの時から被爆者としての講演をお願いして布石を打つ一方、広テレが政府に証言者候補として極秘に提案していた人だ。1週間前には確実な筋から「小倉さんで行く」との情報を得ていた。事前報道のタイミングも計り、満を持して前夜に報道した。

首相のサミット総括記者会見は、当初ホテルで行われる予定だった。私は個人的に「平和公園で首脳たちを迎えてサミットが始まるのだから、最後も平和公園で締めるべきだ」と官邸中枢に主張した。その結果、「晴れなら慰霊碑前、雨なら平和公園内の国際会議場」となり、実際、慰霊碑前で行われた。

不発に終わった提案

私は内々に「長崎の被爆者も証言者に加えてほしい」とも提案していた。「広島ビジョン」で「核不使用」がキーワードになると考え、「ナガサキを最後の被爆地に」という、もう一つの被爆地の声と相通じると思った。首相も最終局面まで検討してくれたが、全体日程との関係で時間の制約があり、なおかつ2人に証言してもらうとどちらも中途半端になると判断し、首相の裁断で「今回は広島の一人としよう」と決まった。長崎の被爆者の証言が実現しなかったのは残念だ。

 メディアが政府や自治体に提案をすることは何ら問題ない。提言報道は昨今、珍しくなくなった。メディアは政府や行政を批判だけしていてはその使命を果たせない。提案し、実行に移させるのもメディアとしての役割だ。

 広島でこんな大型な国際会議は当分、想定できない。そこで提案したが実らなかったもの、個人的に関わったことにまで敢えて触れて差し支えない範囲で総括した。後年、何かの参考になれば幸いだ。

 

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2023年6月26日 (月)

徒然エッセイ第80話 オバマの広島訪問が導いたG7広島サミット

以下の原稿はG7広島サミット(2023.5.19 ~21)の終了を受けて、6月11日に広島池田平和記念会館で行われた

「G7広島サミットを終えて」と題しての聖教文化講演会(聴衆約1000名)での講演の要旨が6月19日付け聖教新聞3面に

掲載されたのでそのまま転載するものだ。

 

〈聖教文化講演会から〉 広島テレビ放送顧問 三山秀昭氏の講演(要旨)<前文> 聖教文化講演会が11日、広島池田平和記念会館で行われ、広島テレビ放送顧問で広島大学特別招聘教授の三山秀昭氏が講演した。氏は、オバマ米大統領の広島訪問(2016年)の実現に尽力した一人。「G7広島サミットを終えて――ヒロシマの心、池田提言の意味」と題した講演の要旨を掲載する。<本文>  先月、広島でG7サミット(主要7カ国首脳会議)が行われました。サミット後、ある雑誌の取材を受けた折、編集者が私に、「オバマ大統領が広島に来ていなかったら、今回のサミットは開催できただろうか」と聞きました。同じ意見をよく耳にします。 現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が被爆地・広島を訪れたのは、2016年5月27日。彼を広島に招くために努力した一人である私に、その経緯を聞きたいとのことでした。 その内容も踏まえながら、今回のサミットに至った「道のり」について話したいと思います。 戦後、世界各地で起こった核兵器を巡る運動の多くは、「核実験の禁止」が主要なテーマでした。では、「核兵器のない世界」を目指す運動は、どのようなことがきっかけで、新しい動きが見られるようになっていったのか。 その端緒の一つは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロです。首謀したのは、国際テロ組織アルカイダでした。国家ではなく、過激な一団体による犯行です。“もしも、テロ集団が核兵器を手にしてしまったら……”と、世界中が真剣に向き合い始めたのは、この時でした。  07年1月、アメリカのキッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院議員の「4賢人」が、“核拡散や核テロの可能性もありうる”として、「核兵器のない世界」を訴える論文を発表しました。ここから、それまでの被爆者や市民社会の取り組みに加えて、国際政治の分野でも、「核なき世界」を目指す必要性を呼び掛ける流れが始まったといえます。 08年の大統領選挙に臨むオバマも、この論文への賛同を表明し、民主党の政策綱領に「核なき世界」が明記されました。オバマは大統領選に勝利し、翌09年1月20日にアメリカ大統領に就任します。 就任から3カ月後、オバマはチェコのプラハで、「核なき世界」を提唱する演説を行いました。その意義は、核なき世界を目指すと述べたことにとどまりません。アメリカは「核兵器を使用したことがある唯一の国」として、「行動する道義的責任」があると踏み込んだのです。 その年の11月、オバマは初めて訪日します。オバマ政権は日本側と、広島訪問の是非について意見交換したようですが、訪問は見送られました。以降、10年11月、14年4月の訪日の際も、広島訪問には至りませんでした。 

  池田SGI会長は2010年1月の「SGIの日」記念提言や、同年3月の中国新聞への寄稿で、原爆投下から70年となる15年に、広島で「核廃絶サミット」を開催することを提案されました。 当時、私はまだ広島にいませんでしたが、池田会長の平和提言は、この時から目に留まっていました。その後も毎年、池田会長の提言を読んできました。 池田会長は12年1月の中国新聞への寄稿でも、広島での各国首脳会議の開催を提案されています。その年は、広島テレビの開局50周年でした。私たちは、平和記念公園に届けられる折り鶴を、平和につながる再利用という形で紙にして、平和への一筆を書いてもらう「piece for peace」というキャンペーンを展開していました。 同年11月、オバマが大統領選で再選されますが、その翌年の「SGIの日」記念提言で、池田会長はさらに具体的な提案をされます。15年にサミットを開催する際、国連や他の核保有国、非核兵器地帯の代表が一堂に会する拡大首脳会合をやってはどうか。例えば、15年の主要国首脳会議のホスト国であるドイツと16年の日本が交代し、広島や長崎で開催してはどうか――そういう内容でした。 この壮大な発想に、とても驚いたのを覚えています。

 

 2014年の年明けから、広島テレビでは「piece for peace」運動を切り替えて、「オバマへの手紙」キャンペーンを始めました。折り鶴の再生紙に、オバマ大統領への気持ちを書き込んでもらい、ホワイトハウスに届けようという企画です。  その年の5月、まずは第1弾として、被爆者や広島市長、県知事、高校生ら72人分の手紙を携えて、ホワイトハウスを訪れました。その折、私がホワイトハウス高官らに強く訴えたことがあります。それは、「広島は原爆投下への謝罪を求めてはいない」ということでした。 被爆者をはじめ、皆がつらい気持ちを乗り越えて、未来志向で大統領の訪問を望んでいることを、なんとしても伝えたかった。広島県原爆被害者団体協議会理事長を務め、自らも被爆者であった坪井直さんは、「恨みつらみで平和は来ない」と語っています。「謝罪のハードルを課すのは核廃絶の近道ではない」と。立派な言葉だと思います。 翌年、今度は1400人分の「オバマへの手紙」を持って、ホワイトハウスを再訪しました。この時、私は、被爆者である森重昭さんの活動を、詳細に報告しました。 森さんは長年にわたって、原爆で米兵捕虜12人が被爆死した真実を調べ上げた方です。原爆で米兵が亡くなったことは、戦後30年以上、アメリカで極秘事項とされていました。森さんの問い合わせに対して、国防総省が認める形で明らかになったのです。 アメリカが投下した原爆で、米兵が亡くなっていた。一人の日本人被爆者が、その米兵たちの身元を調べ、アメリカの遺族を探し出して連絡し、確認されるごとに、名前を原爆死没者名簿に記載してもらうという、地道な作業を続けていた――。この森さんの活動が伝われば、大統領は広島に来やすくなるのではないかと直感しました。 そして16年5月27日、歴史的なオバマ大統領の広島訪問が実現します。オバマは演説で、日本の被爆者に加えて、被爆した「12人の米国人捕虜」にも追悼の意を表しました。演説後には森さんを抱き締め、言葉を交わしています。 過去よりも未来、恨みよりも核廃絶をという「ヒロシマの心」が、オバマの訪問につながったのだと思います。 

 それから7年の歳月を経て、本年、広島でのG7サミットが実現しました。 過去にも多くサミットを取材しましたが、今回ほど、後に思い返されるサミットはないと私は思います。被爆地開催ということで、もともと、海外メディアの関心が極めて高かったわけですが、ウクライナのゼレンスキー大統領が参加したことで、さらに注目が集まりました。  サミットの評価はさまざまです。期待外れだったという人もいますが、それは期待値が高かったからでもありましょう。一方で、本当に素晴らしいサミットだったという人もいます。 これまでの日本のサミットは、伊勢志摩にせよ、洞爺湖にせよ、沖縄にせよ、リゾート地の隔離された場所で行われてきました。しかし今回、会議こそ市内のホテルで行われましたが、各国の首脳を迎えたのも、最後の総括的な記者会見を行ったのも、平和記念公園です。いわゆる“街中でのサミット”だったにもかかわらず、警備上の大きなトラブルもなく閉幕しました。 評価を下すにあたって、サミット前とサミット後を、事実に基づいてチェックしてみます。 これまで核保有国の現職首脳が広島を訪れたのは、2016年のオバマ大統領だけでした。しかし、その前例があったからこそ、まずアメリカのバイデン大統領の訪問の調整がついた。さらに今回は、フランスのマクロン大統領、イギリスのスナク首相、そして招待国であったインドのモディ首相も広島を訪れています。サミット前は「1カ国」だった事例が、サミット後は「4カ国」になりました。 また、招待国であった韓国の尹大統領を岸田首相が迎え、共に韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れ、献花しました。 戦中、戦後の歴史もあって、韓国大統領が広島や長崎を訪れたことは、これまでありませんでした。それを思えば、この共同慰霊は歴史的なものとなりました。 サミットに向けて、地元の広島は、各国首脳に「被爆の実相に触れてほしい」という思いを持っていました。具体的には、①原爆死没者慰霊碑への献花、②原爆資料館の視察、③被爆者の証言を聞くことを熱望していました。 今回、これらは全て実現しています。資料館の内部での状況は非公表でしたが、首脳たちは約40分かけて視察しています。オバマの時は10分でした。「不十分だ」「物足りない」といった声もありますが、それは資料館内部での状況が非公表だったことも、影響しているかもしれないと思います。 視察を終えた首脳たちは、一様に厳粛な表情でした。献花の際、マクロン大統領やイタリアのメローニ首相が、頰に手を当てていたのも印象的でした。核保有国の首脳たちが、被爆の実相に触れたのは間違いありません。

 サミット後の広島は、多くの観光客でにぎわっている印象です。それまで広島に関心を持っていなかった人たちも訪れるようになり、原爆資料館を視察すれば、それこそ被爆の実相に触れることになります。被爆の実相を知り、持ち帰って語るという実践が、草の根のレベルで広がっていけば、今回のサミットの意義はさらに高まります。  サミットに向けて、広島テレビでは、小中学生や若者を対象とする「折り鶴キャンペーン」を展開し、資料館内の芳名録に記帳する机に置かれました。キャンペーンは今後も続ける予定です。 つまり、サミットは3日間で終わったわけではない。本年の大みそかまでは、日本が議長国です。被爆国の日本がどういう取り組みをしているかを、世界に発信していくことが大切です。創価学会の皆さんもまた、平和運動や文化運動など、さまざまな運動にますます取り組んでいただきたいと念願しています。 こうした市民運動は、あまり効果がないと思われる人がいますが、そんなことはありません。かつて、ベトナム戦争が終わった背景には、世界中の反戦運動がありました。対人地雷やクラスター爆弾が禁止されたのも、市民社会の声が政治指導者たちを動かしたからです。 市民社会の運動が大きなうねりとなって歴史を変えることは、これまでもあったし、これからもあると思います。 池田会長が本年4月にG7サミットに寄せて発表した提言で強調されていた通り、民衆の力が核兵器のない世界への道を切り開くことを、私は確信しています。

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2023年6月13日 (火)

徒然エッセイ第79話 G7広島サミット「春秋」再録

注)以下の原稿はG7広島サミット終了直後に広島の月刊経済紙「春秋」にサミットをどう総括するかについて寄稿した記事を再録ものだ。

G7広島サミットを徹底検証する

    広島テレビ顧問 広島大学特別招聘教授  三山 秀昭

 

 過去49回(1回だけ中止)の主要国首脳会議(G7)の歴史でも様々な意味で特筆される広島サミットとなった。隣国から侵略され、戦禍にある国のトップが戦地を離れ、G7に対面(リアル)出席するなど前例があろうはずがない。私は国内だけでなく、米国、英国、フランスのサミット取材経験があるが、これほどのビッグサプライズに遭遇したことはない。ウクライナのゼレンスキー大統領のG7対面参加は、シナリオのない?生のドラマとなった。

「広島開催」が正式決定して1年余、長い助走期間を経てサミットはテロなど警備上の大きなトラブルもなく閉幕した。本誌2月号で「G7広島サミットへの視座」を寄稿したことを受け、広島サミットを徹底検証する。

サミットをファクトチェック

 サミットを総括し、評価を下す手法は二つある。一つは事前の期待値と結果の受け止め方を比較考量して論評する方法だ。「期待値」が人によって異なるのでやや主観的になる。もう一つはサミット前(before)と結果(after)を事実(fact)に基づいて客観的にチェックする方法。ここでは後者で検証する。

 

広島開催が決まるまで

 

思い返し、振り返ってみよう。サミットには広島のほか名古屋、福岡市が招致に名乗りを挙げていた。警備面や宿泊、交通アクセスなど様々な角度から“採点”された。結果は未公表だが広島と福岡が拮抗していた。岸田文雄首相が選んだのが広島開催。これを「首相は自分の選挙区の広島を選んだ」と見るムキがある。何事も政局絡みで考えがちな“永田町的”で矮小な見方だ。

 首相が広島開催を最終決断したのは「プーチンのロシア」がウクナイナに武力侵攻した2022年2月24日の1週間後。「ロシアのウクライナ侵略を受け、広島ほど平和へのコミットメント(関与)を示すのに相応しい開催地はない」(首相)という考えは素直に受け止めるべきだ。

「広島=被爆地開催」であるため、早速、核超大国で「唯一の原爆投下国」の米国ホワイトハウスと水面下の調整が進められた。ただ、オバマ大統領の広島訪問(2016年5月)の前例もあり、3月中には内諾を得た。しかし、それだけでは決まらない。フランスの存在だ。ドゴール大統領時代以来、外交、安全保障政策では米英とは一線を画す核保有国のフランスには「外交ルートで丁寧に複数回、説得を続けた」(寺田稔・核軍縮不拡散問題担当首相補佐官=当時)。こうしてサミット1年前の5月末のバイデン米大統領訪日時に公式発表にこぎつけた。「広島開催」が簡単に決まったのではないことに留意しよう。

「ヒロシマ」のメッセージ性

 過去のサミット取材経験から見ても、これほど事前に内外のメディアから注目されたサミットもない。それは「G7広島サミット県民会議」(会長=湯崎英彦広島県知事)を始めとする地元の“熱狂的“とも言える盛り上げ策に加え、東京や海外メディアの注目度は異常なほど高かった。なぜか。それは人類初の核兵器の惨禍を浴びた被爆地でのサミットという特質だ。加えてロシアのプーチン大統領が核の恫喝を繰り返し、「これはハッタリではない」とまで脅す状況下でのサミットであることが重なったからだろう。「ヒロシマ」が発するメッセージ性と「ウクライナ」のニュース性が注目度を高めたことは間違いない。まして、ゼレンスキー大統領の対面参加によってそれは最大沸点まで到達した。 

「オバマだけ」からの広がり

 さて、これまでに(before)核保有国の現職首脳が広島を訪れたのはオバマ大統領が唯一の例だ。ニクソン、カーター両元大統領も広島を訪問しているが、両氏とも大統領選に敗れて“浪人中の身”の時であり、カーターは日本企業の招待で訪日した際に広島に「立ち寄った」だけだ。もう一つの核超大国のロシアのゴルバチョフ氏も1992年4月に広島を訪れた。しかし、それは前年12月にソ連の崩壊とともに大統領を退任し、読売新聞の招請を受けての訪日だった。広島テレビ主催の市民との対話集会でスピーチはしたが、シンポジウムの域を出なかった。私が核保有国の「現職首脳」に拘るのは、「現職」こそが核の発射ボタンを押す権限を持つ一方、核軍縮交渉を進める決断の権能も有するからだ。

 広島サミットの結果(after)、これまでの「オバマだけ」からバイデン米大統領、マクロン仏大統領、スナク英首相の核保有3か国首脳がそろって、原爆資料館を視察し、被爆者の証言を聴き、慰霊碑に頭を垂れた。また、アメリカの核兵器が配備され、「核シェアリング」の下にあるドイツ、イタリアの首相もその列に加わった。

 さらに見逃せないのは、やはり核保有国インドのモディ首相がサミット拡大会議に参加したことだ。インドは初代首相・ネルーが1957年10月、娘のインディラ・ガンジーを連れて広島を訪問している。当時、インドは「非同盟中立」の盟主として米ソ両大国の核武装、核実験を厳しく批判しており、平和公園には3万人の市民が集まり、花火まで打ち上げられる大歓迎を受けた。しかし、後にインディラ・ガンジーが首相

になるや74年5月に核実験に成功、米ソ英仏中に次ぐ6番目の核保有国になってしまった。以来、インド首脳の被爆地訪問は避けられてきた。それが半世紀以上の時を経て、インド首相が原爆資料館で被爆の一端に触れたことの意義は小さくない。 

歴史を越えた日韓首脳の共同慰霊

 また、やはり招待国として拡大会議に参加した韓国の尹錫悦大統領の広島訪問も別の視点で意義深い。広島、長崎に投下された原爆では当時、7万人の朝鮮半島出身者が被爆、広島では「2万余名の韓国人」(在日韓国青年商工人連合会)が死亡したと推計される。両市の平和公園の一角には「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」も建立されている。しかし、広島で最初の慰霊碑が建立されたのは被爆から25年後のこと。それも平和公園と川を挟んで反対側だった。その慰霊碑が平和公園内に移設されるまで30年近くかかった1999年のことだ。「半島出身者の慰霊碑を市が管理する平和公園内に作ることは問題」の声が一部団体から上がっていたのだ。被爆に加え「差別」の歴史が続いていたのだ。

 このため、これまで韓国大統領は何人も来日しているが、一人も広島、長崎を訪れていない。これは韓国や中国に共通して言えることだが、「日本は原爆の被害面だけを強調し、それに先だって日本軍が韓国や中国に多大な迷惑をかけたことに目をつぶろうとしている」という感情が

根強いからだ。そんな経緯もあり、尹大統領は今回の広島訪問では、広島で生存する在日韓国人被爆者に会い、「韓国大統領がここへ来るのが遅過ぎた」と率直にわびた。その観点からも今回広島を訪問した尹大統領と迎えた岸田首相が共に広島市の慰霊碑に先立ち韓国人被爆者慰霊碑に共同慰霊し、花を手向けたことは注目に値する。両国首脳による共同慰はもちろん初めて、日本の首相の単独慰霊も小渕恵三首相の例が1件あるだけだ。今回の共同慰霊は「歴史」を乗り越えた新たな日韓関係を象徴することとして意義深く、広島サミットがもたらした“副産物”と言うには余りにも大きい成果だ。

「3点セット」の熱望

 サミットに向けて地元・広島も岸田首相も「被爆の実相に触れて」として「三点セット」を熱望してきた。それは①首脳たちによる慰霊碑への献花②平和資料館の視察③被爆者の証言を聴くことだった。③は多くの候補者の中から小倉桂子さん(85)が選ばれた。小倉さんは独学で

学んだ英語で、切々と自らの被爆体験を語り、2歳で被爆、10年後に亡くなった佐々木禎子さんの話に重ね合わせ、首脳たちに「人間として感じ、自分のこととして追体験してほしい」と語りかけた。首脳たちは小倉さんに握手を求め、ねぎらいの言葉もかけた。「数分の予定だったが倍以上になった」と小倉さんは語る。資料館から出てきた首脳が一様に厳粛な表情で、献花の際もフランス大統領やイタリアの首相は頬に手を当てていたのが印象的だった。「被爆の実相に触れて」という地元広島の熱望は叶ったことは素直に認め合わなければならない。

 被爆者団体や一部グループは「不十分だ」「物足りない」と不満を漏らしているが、それは資料館の内部での状況が非公表のためで、この点は核保有国、特にアメリカの「オバマの時と同じに」と言う要望もあるとはいえ、打開の余地があるのではないか。

核、特別文書の意味するもの

 サミットでは毎回、何本もの「宣言」「声明」「アピール」などが採択され、メディアや専門家がその文言を論評するのが常である。今回も「コミュニケ」「宣言」「声明」などが発表されたが、注目すべきは「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」がコミュニケとは別の独立文書

として初めてまとめられたことだ。これは岸田首相の強い意志特別の扱いとなったもの。ビジョンは「核兵器のない世界」を「究極の目的」と位置づけ、それに向かう「コミットメント」としている。「77年に及ぶ核不使用の記録」を重視し、ロシアに対し「ウクライナへの核の使用と威嚇は許されない」と迫り、ベラルーシへのロシアの核配備は核拡散だと批判している。さらに、中国、ロシアに対し、「核の透明性」を求め、「核兵器のない世界は核不拡散なくして達成できない」と力説している。結びには「厳しい現実を理想へと導く」ために「世界の指導者や若者の広島、長崎訪問を促す」としている。

 これに対し、被爆者団体などから「核廃絶の言葉がない」「失望した」という不満や「当面の核抑止力を認めている」などという批判も出ている。一方で被爆者の中にも、「ウクライナ情勢等厳しい国際政治の現実を踏まえればやむを得ない」との受け止め方も広がっている。ただ、日本は年内いっぱいははサミット議長国だ。昨年ドイツが議長国だった際は、リアル首脳会議を2回、オンラインでは数回開催した。9月のインドでのG20を始め、議長国としてあらゆる機会を捉え、「G7+α」の拡大会議を設定し、その結束によってプーチンに核使用を思い留まらせ、ウクライナ戦争を「正義」の旗の下で、まずは停戦への道筋をさぐれないかと願う。

メディア効果とインバウンド

 本質からは離れるが、広島サミットは特異な副次的効果をもたらした。「被爆地サミット」は前段で記したように「ウクライナ」と重なり合って内外メディアから注目の的となった。サミット前から海外メディアが広島入りし、サミット期間中も本筋の報道とは別に現代のリアルな「ひろしま」を世界に伝えた。瀬戸内の多島美や名産の蠣、お好み焼き、広島テレビが小中校生や若者などに広く展開した折鶴キャンペーンも発信の対象になった。これらがインバウンドとして海外観光客を招き寄せることは確実だろう。それはオバマの広島訪問後、欧米の観光客が急増したことで証明済みだ。平和公園や原爆ドームを訪れたことのある日本人観光客もリピーターとしてオバマが折った折鶴を見るために資料館を再訪するという現象も見られた。

 今回はG7首脳たちが資料館に書き遺した「芳名録」の言葉や被爆樹木のサクラ(ソメイヨシノ)の枝を挿し木した記念植樹も話題を集めそうだ。また、首脳たちも配偶者も、もう一つの世界遺産の宮島を訪れ、厳島神社の朱色の大鳥居をバックに記念撮影が行われ、夕食会やパートナープログラムも開催された。これらが相乗作用としてインバウンドの波が広島に押し寄せれば、首脳たちだけでなく一般市民レベルでも「被爆の実相」が広く知られていくことになろう。こうして「ヒロシマ」に加え、かつての廃墟から完全に蘇った近代都市「ひろしま」が世界に知られれば、今、荒廃の極みにあるウクライナの市民に、他国へ逃れている避難民に、激励と連帯のメッセージになるのではないかとさえ思う。G7広島サミットの成果は思った以上に多面的なのかもしれない。

 

略歴

 

三山 秀昭(みやま ひであき)

 1946年富山県生まれ。早稲田大卒業。読売新聞政治部、ワシントン特派員。政治部長、秘書役などを経て2011年広島テレビ社長。会長、最高顧問。広島日仏協会会長。

 2016年のオバマ米大統領の広島訪問に先立ち、岸田文雄外相(当時)、湯崎英彦県知事、松井一實広島市長らと連携、被爆者、市民から集めた「オバマへの手紙」1472通を携え、14、15年にホワイトハウスを訪問、オバマの広島訪問実現に尽力。今回の広島サミットでも政府や関係者にいくつかの提案を行った。

 著書に「オバマへの手紙」(文春新書、1095)、近著に「ブランチにニュースなコラムを」(南々社)、「世界のリーダー185人ヒロシマ、ナガサキで発した言葉」(同)など。

 月刊誌「リベラルタイム」にコラムを連載、ブログ「徒然エッセイ」(http://pict-dd.cocolog-nifty.com/tsurezure/)は75回を数える。

 

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徒然エッセイ第78話 G7広島サミット 外交専門誌「外交」

定点観測者の「G7広島サミット」検証

(注)以下の原稿は第77話の「G7広島サミットとゼレンスキーと私」と書き出し部分で多少ダブル部分もあるが、外務省発行の外交専門誌「外交」(VOL79)に寄稿したオリジナル原稿だ。「外交」では紙数の関係上、カットされた部分があるが、ここでは全文を掲載する。

広島テレビ顧問、広島大学特別招聘教授

三山 秀昭

基軸通貨ドルと金の交換停止というニクソンショック(1971年)、第4次中東戦争(1973年)によるオイルショックで、あの頃、世界経済はカオス(混沌)の中にあった。一方、ウオーターゲート事件でニクソン米大統領が辞任(1974年)、国際政治におけるアメリカの力は地に堕ちていた。そんな状況下でフランスのジスカールデスタン大統領が提唱して1975年にスタートしたのが主要国首脳会議(当初は6か国、翌年から7か国)だ。そのG7サミットが広島開催で49回目、広島サミットは歴史に残る特筆すべきサミットになった。隣国から侵略され、戦禍にある国の元首が、G7に対面(リアル)で参加するなど前例があろうはずがない。私は読売新聞の記者時代、日本国内での開催やアメリカ、イギリス、フランスでのサミット取材の経験を持つが、こんなサプライズに出くわしたことは一度もない。

外交専門誌「外交」から広島サミットの特別企画への執筆依頼は、私のキャリアに加え、この10年余、広島に住み、広島のメディアに関わる一人として「ヒロシマ」を定点観測してきたからの人選らしい。また、2016年5月のオバマ米大統領の広島訪問実現に多少関与したことも関係があるようだ。そこで他の執筆者の視点と重ならないよう、極力、開催地・広島にフォーカスを絞り検証したい。

ゼレンスキーとフランスのリンケージ

  本論に入る前にウクライナ・ゼレンスキー大統領の「電撃」広島訪問に関し、私周辺でのファクトを記す。私もゼレンスキー関連の情報に振り回された一人なのだ。私事だが私は広島日仏協会会長の役を引き受けている。このためフランス政府関係者とは交流がある。5月初旬にこんな連絡を受けた。「大統領に同行予定だったマクロン夫人のブリジットさんが訪日できなくなった」。宮島・厳島神社のある広島県廿日市市とフランスのモンサンミッシェルはともに「海の宗教施設」として姉妹都市関係にあり、日仏協会会長の私と松本太郎市長でがサミット期間中にマクロン夫人に面会することになっていた。このため、夫人が来日しないことは肩透かしを受けた形になった。また、当初「マクロン大統領は直接、広島空港に入る」と聞いていたのに「途中どこかに寄るかもしれない」と変わった。さらに他のサミット参加首脳は18日夕までに広島入りするが「マクロン大統領だけはサミット初日の19日朝になる」との情報も入ってきた。

岸田文雄首相が3月の連休にウクライナを訪問した際、ゼレンスキー大統領は「広島サミットへのオンライン参加」で合意していた。しかし、4月末にウクライナ政府から「広島へ行きたい」との「強い要望」が首相官邸に伝えられた。イギリスのスナク首相が「広島へ行くべきだ」と背中を押したとされる。官邸と外務省、警察庁のごくごく限られたメンバーで「その可能性を探っていた」という。

サミット開幕の週が始まる15日朝、ロイター電が「Exclusive」(独自電)として記事を配信した。ワシントンとベルリン発の記事で、見出しにはないが長文の原稿末尾に次の一文があった。「彼(ゼレンスキー大統領)は広島サミットでG7の首脳に『either virtually  or  in-person』会うだろう」。「virtually」はオンライン参加のことで予定通りだ。「in person」(直に会う)が注目された。日本外務省は広島県庁にこれを「連絡」した。ただ「本日、外電がこう報じた」というコメント無しの「一応のお知らせ」という程度だった。

しかし、前記フランスからの情報もあった私は「?」と思い始めた。また、ゼレンスキー大統領はサミットの前の週に英、独、仏、伊の首脳と相次いで会談していた。もし、当初予定通りのオンライン参加なら、サミット議長の岸田首相がゼレンスキー大統領に電話して、欧州首脳と同様の直近情報を掴もうとするはずだ。しかし、その動きはない。「おかしいな」と私の中で勝手に「フランス」と「ゼレンスキー」が繋がり始めていた。「マクロンがゼレンスキーと一緒に広島入りするので夫人が来ないのかな」と想像が広がったが、それ以上は確認する術がなかった。それがサミット開幕前夜の18日夜に「ゼレンスキーが広島に来る」という情報が流れ、メディアは大騒ぎになった、マクロン大統領は19日朝、広島空港に到着したがゼレンスキーは一緒ではなかった。彼はサウジアラビアのアラブ連盟会議に参加していたが、しばらくして「フランスの政府専用機で広島に向かっている」という確かな航空情報まで入って来た。20日午後、ゼレンスキーはフランスの政府専用機で広島空港に着き、タラップをカーキ色の上着姿で早足に降り立った。

一方、サミットのセッション日程を変更し、最終日にウクライナ関連を移した。ゼレンスキー大統領はG7首脳との個別会談や招待国を交えた拡大会議、インドやインドネシアの首脳とも会談した。彼は原爆資料館で被爆者・小倉桂子さんの被爆体験を聞き「深く感銘した。世界中のどの国もこのような苦痛や破壊を経験することがあってはならない。現代の世界で核による脅しの居場所はない」と芳名録にウクライナ語の言葉を残し、戦地に戻って行った。ゼレンスキーの広島「電撃」訪問に日本、ウクライナ、フランス政府が極秘に関わっていたことになる。

「ヒロシマ」のメッセージ性と「ウクライナ」のニュース性

広島サミットはゼレンスキー大統領の登場により世界のメディアに注目されたことは否定できない。ただ、実態は少し違う。私の過去のサミット取材経験から見ても、これほど事前に注目されたサミットはない。それは私が広島に住み、盛り上がりを肌で感じたからではない。もちろん「G7広島サミット県民会議」(会長=湯崎英彦広島県知事)を始めとする地元の“熱狂的“な盛り上げ策は異常だった。しかし、東京の全国紙、キー局や特に海外メディアの注目度も従来になく高かった。ドイツのメディアは広島テレビが展開していた折鶴キャンペーンまで取材に来た。それは人類初の核兵器の惨禍を浴びた「ヒロシマ」での「被爆地サミット」だったからだ。それにロシアのプーチン大統領が核の恫喝を繰り返し、「これはハッタリではない」と脅す状況でのサミットであることが重なった。「ヒロシマ」のメッセージ性と「ウクライナ」のニュース性が重なり合って注目度を高めていた。ゼレンスキー大統領の電撃出席でそれが沸点まで達した、と言える。

「広島開催」の意味

 今回は広島のほか、名古屋と福岡がサミット招致に名乗りを上げた。外務省と警察庁は様々な角度から“採点”した。結果は非公表だが「福岡と広島」が横一線だった。「岸田首相は選挙区の広島を開催地に選んだ」と言われる。「我田引水論」だ。何でも政局絡みで見ようとする「永田町解説」である。

 しかし、首相が広島開催を内々に決めたのは「プーチンのロシア」がウクライナに武力侵攻した2022年2月24日から数日経過した月末だった。開催地が近年の各国サミットのようにリゾートでの「リトリート(隠れ家)方式」なら即決定だった。問題は「広島=被爆地」である以上、参加国の事前了解が必要だ。主会場を海辺で警備がしやすい「グランドプリンスホテル広島」に決めても、平和公園での慰霊や平和記念資料館(原爆資料館)の視察が組み込まれないと「広島開催」でなくなる。平和公園はの中心部、“街中“サミットになる。

 首相の決断を受けて米ワイトハウスへの水面下の「説明」が始まった。核保有国で、「唯一の原爆投下国」のアメリカの了承は必要だった。ただ、2016年5月のオバマ大統領の広島訪問の事例があり3月末には了解は得られた。問題はフランスだった。ドゴール大統領時代以来、フランスは外交・安全保障政策では米英と一線を画している。ブッシュ(子)米政権がイラク戦争に踏み切る際も「イラクが大量破壊兵器を隠し持っているという証拠がない」と最後まで賛同しなかった。そこで外務省は特にフランスには神経を配った。「広島で開催する意味を説き、理解を得るのに丁寧に説得を続けた。フランスは核兵器に関しては他の核保有国とは違うスタンスだからだ」(寺田稔・核軍縮核不拡散担当総理補佐官=当時)。こうして「広島開催」はバイデン米大統領の日本訪問時(2022年5月末)に合わせて公式発表にこぎ着けたのが真相だ。「首相は地元を開催地に選んだ」というのは余りに皮相な見方で、「広島サミット」の本質を見失う矮小な視点だ。

「オバマだけ」からの広がり

核保有国首脳が被爆地・広島を訪れた例は、2016年のオバマ米大統領だけだ。ニクソンもカーターも訪問したが、いずれも大統領選に敗れての“浪人中の身”の時だ。もう一つの核超大国のロシアからは1992年にゴルバチョフ氏が訪れているが、それは1991年末にソ連の解体で大統領を退いた翌年、読売新聞の招請で訪日した時だ。広島テレビ主催の市民との対話集会で、彼は「広島が沈黙することなく『ノーモア・ヒロシマ』と警鐘を鳴らし続けてきたことに敬意を払う。①政治と道義を結び付けよう②誰もが国際法を守ろう③正義・・の三点を指摘したい」と語りかけた。今のプーチンに突きつけたい言葉だ。しかし、「現職」でない元首脳の言葉は重みに欠ける。私が「現職」にこだわるのは核保有国の現職首脳は核の発射ボタンを押す権限を持つ一方で、軍縮交渉を進める決断ができるポジションにあるからだ。

 広島サミットの結果、「オバマだけ」から米仏英の核保有国三首脳が「被爆の実相」を知った。それにアメリカと「核シェアリング」の関係にある独、伊、さらにインドも加わった。戦後、イギリスから独立したインドの初代首相はジャワハラル・ネルー。彼は1957年10月、娘のインディラ・ガンジー(建国の父のマハトマ・ガンジーとは血縁ない)を伴って広島を訪問した。「非同盟中立」の盟主であるネルーは米ソの核武装、核実験に強く反対しており、約3万人の広島市民を前に「原水爆禁止を良心的に対応できなければ人類は破滅の道に導かれる」と世界に訴えた。しかし、その17年後、娘のインディラ・ガンジー政権下で1974年に核実験に成功、米ソ英仏中に次ぐ6番目の核保有国に名を連ねた。以来、インド首脳の広島、長崎への訪問は途絶えたままだった。今回、岸田首相はサミットにG20議長国のインド・モディ首相を招いた。ネルー訪問から60有余年を経て核不拡散条約(NPT)に参加していないインド首脳が原爆資料館で被爆の実相と向き合った意義は重い。

日韓首脳の被爆者共同慰霊の意義

韓国の尹錫悦大統領が広島を訪ね、原爆犠牲者を慰霊したことも意義深い。第二次大戦の後半では多くの朝鮮半島出身者が徴用され、「軍都」である広島や長崎で働いていた。そこへ原爆が投下され、広島では韓国人「2万余名」が死亡したとされるが「推計」で、実態は分かっていない。「犠牲者は誰からの供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けた」と慰霊碑に刻まれている。それは韓国人慰霊碑の建立まで被爆から25年の歳月を要し、当初は平和公園と川を挟んだ対岸にあったことを意味する。平和公園内に移されたのはさらに30年経た1999年だ。「なぜ、韓国人の慰霊碑を広島市が管理する平和公園内に移すのか」という反対の声があったのだ。被爆に「差別」が重なる苦難の経緯があるのだ。

 さらに韓国や中国には「広島、長崎は原爆の被害面だけを強調するが、それに先立って大戦中に朝鮮半島や中国に日本がいかに迷惑をかけたかに目をそらそうとしている」という感情がある。韓国や中国の首脳は何人も訪日しているが、今まで一人も広島、長崎に慰霊に訪れていなかったのはこんな背景がある。

今回、尹大統領がサミットに招かれて広島を訪問、招いた岸田首相とともに、広島市の慰霊碑だけでなく、韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも慰霊を行った。日本の首相が韓国人慰霊碑に慰霊したことは小渕恵三首相が1999年に慰霊碑の平和公園への移設を受けて訪れた一例があるのみ。日韓両首脳の共同慰霊はもちろん初めてのことだ。今回の共同慰霊を戦中、戦後の「歴史」やわだかまりを越えて、新たな日韓関係を象徴する「歴史的エポック」と高く評価したい。サミットがもたらした「副産物」というにはあまりにも大きい成果だ。

「広島ビジョン」の読み解き方

G7では毎回、様々な文書が採択される。今回はサミットを総括する「G7広島首脳コミュニケ」や、今回初めて独立文書にまとめられた「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」、「ウクライナに関するG7首脳声明」など計10本の文書が採択された。このうち注目されているのが「広島ビジョン」だ。これに対し、被爆者団体から、「不満だ」「期待外れだ」などの声が出ている。「核廃絶という言葉がない」との批判もある。

しかし、まず、言葉の定義と論理を整理しよう。「廃絶」は「なくすること」「なくなること」だろう。「核軍縮」は核弾頭数や運搬手段のミサイルを「減らすこと」、「核不拡散」は文字通り」「核保有国や配備国が増えないこと」、「核不使用」とは「使わないこと」であり、「威嚇」とは「使うぞと脅すこと」だろう。

ロシアのプーチン大統領がウクライナに核兵器による恫喝を繰り返し、「これはハッタリではない」と“ダメ押し”しているのは、まさしく「核使用」で「威嚇」していることに他ならない。隣国ベラルーシに配備しようとしていることはまさに「拡散」だ。

言葉と論理を整理したうえで、「ビジョン」を丹念に読み解いてみた。①核軍縮に特に焦点を当てた初の首脳文書を発する②「全てのものにとって安全が損なわれない形での核兵器のない世界の実現に向けてのコミットメントを再確認する③77年間に及ぶ核兵器の不使用の記録の重要性を強調する④ロシアの無責任な核のレトリックやベラルーシへの配備表明は受け入れられない⑤ロシアの賛同したG20首脳によるバリ(インドネシア)声明を想起し、核兵器の威嚇や使用は許されないとの立場を表明する⑥2022年1月3日に発出された核戦争回避に関する(ロシアも含む)5核兵器国首脳の共同声明を想起し、ロシアに声明の言葉と行動で改めてコミットするよう求める⑦我々の安全保障政策は核兵器が存在する限りにおいて、防衛目的のために役割をはたし、侵略を抑止し、戦争、威圧を防止すべきとの理解に基づく。

「ビジョン」は冷戦終結後の「核軍縮」の継続と「逆行させてはならない」と言及している。また、核兵器不拡散条約(NPT)は「礎石」だとして「不拡散」も強調している。さらに現実的、実践的、責任あるアプローチを通じて「核兵器のない世界」という究極の目標に向けてのコミットメントを再確認している。 つまり、「ビジョン」は「核兵器のない」(廃絶)も「軍縮」も「不拡散」も「不使用」も「威嚇禁止」にも言及しているのだ。

 一部識者は「核なき世界」への具体的「道筋」が示されていないと批判する。しかし、米ロ間で唯一の核兵器に関する条約となった「新戦略兵器削減条約」(新START)の履行停止表明したロシアに復帰と履行を求めている。中国には核兵器や核物質の保有の情報公開など透明性を求めている。北朝鮮にもイランにも国連安保理決議の履行を求めている。

「道筋」に触れているのは間違いない。ロードマップのカレンダー(日程)には踏み込んでいないことは確かだが、ロシアなど相手がある以上、G7だけで日程を組んでも意味がない。

「ビジョン」は結びで「世界の指導者や若者、人々が広島、長崎を訪問することを促し、その具体論として若者、女性、市民社会の関与、参加を求めている。これらを踏まえると「核廃絶の文言がない」という批判は、ある意味で粗雑な論理だ。実は被爆者や被爆二世でも被爆者団体に加わらない人も多い。同じ名称や類似の名称の被爆者団体が存在することは地元では知られているが、全国ではほとんど知られていない。それはともかく、今回のサミットの成果を率直に評価する声が被爆者や被爆二世、広島市民の中にかなり多いことを指摘しておきたい。むしろ、今回のサミットに対する評価の落差から、逆に被爆者がこれら団体から離れることを憂慮する。岸田首相が慰霊碑を背景にした総括の記者会見で「夢想と理想は違う。理想は努力すれば手が届く」と言い切った。スローガンを掲げるだけでは「核」の問題は前進しないこと熟知するだけに、「一歩、一歩歩みを進めていこう」と呼びかけ、現職政治家の一端を垣間見せた。

実現した3点セット

 サミットに向けて地元・広島は「被爆の実相に触れて」として「3点セット」を熱望してきた。それは①首脳たちによる慰霊碑への献花②資料館の視察③被爆者の証言を聴くことだった。③は複数の候補者の中から小倉桂子さん(85)が選ばれた。小倉さんは独学で学んだ英語で、切々と自らの被爆体験を語り、2歳で被爆、10年後に亡くなった佐々木禎子さんの話に重ね合わせ、首脳たちに「人間として感じ、自分のこととして追体験してほしい」と求めた。首脳たちは小倉さんに握手を求め、労いの言葉もかけた。「予定の倍以上の時間になった」と小倉さん。資料館から出てきた首脳が一様に厳粛な表情で、献花の際もフランス大統領やイタリアの首相が頬に手を当てていたのが印象的だった。「被爆の実相に触れて」という地元広島の熱望が叶ったことは間違いない。資料館の視察はオバマ大統領の時の10分、今回は40分だったのだが、被爆者団体の長は「まだ短い」と不満を表明する。ただ、被爆者団体の不満の気持ちの一端は理解できる。それは資料館の内部での状況が非公表のためで、アメリカの要望だが忖度し過ぎだ。現にイギリス、フランス、インドの首脳やゼレンスキー大統領らは何を見て、何を感じたか情報発信している。この点は日本政府も資料館を管理する広島市も再考の余地があるのではないか。

期待される第二のオバマ効果

「被爆地サミット」は前段で記したように「ウクライナ」と重なり合って内外メディアから注目の的となった。サミット前から海外メディアが広島入りし、サミット期間中も本筋の報道とは別に現代のリアルな「ひろしま」を世界に伝えた。 瀬戸内の多島美や名産の蠣、お好み焼き、折鶴も世界に発信された。これがインバウンドとして海外観光客を招き寄せることは確実だろう。それはオバマの広島訪問後、欧米の観光客が急増したことで証明済みだ。

今回はG7首脳たちが資料館で記した「芳名録」の言葉や被爆樹木のサクラ(ソメイヨシノ)の記念植樹も話題を集めそうだ。また、首脳や配偶者たちはもう一つの世界遺産の宮島を訪れ、厳島神社の朱色の大鳥居をバックに記念撮影が行われた。これらが相乗作用としてインバウンドの波が広島に押し寄せれば、市民レベルでも「被爆の実相」が広く知られていく。こうして「ヒロシマ」と廃墟から完全に蘇った近代都市「ひろしま」が世界に知られれば、今、荒廃の極みにあるウクライナの市民や、今は他国へ逃れている避難民に、激励と連帯のメッセージになるのではないか。G7広島サミットの成果は多面的なのかもしれない。

 

 

 

 

略歴

三山 秀昭(みやま ひであき)

 1946年富山県生まれ。早稲田大卒業。読売新聞社入社、政治部、ワシントン特派員。政治部長、秘書役などを経て2011年広島テレビ社長、会長、最高顧問。政府税制調会委員、広島日仏協会会長。

 2016年のオバマ米大統領の広島訪問では岸田文雄外相(当時)、湯崎英彦県知事、松井一實広島市長らと連携、被爆者、市民、広島の要路から集めた「オバマへの手紙」1472通を携え、14、15年にホワイトハウスを訪問、大統領の広島訪問実現に尽力。今回のG7広島サミットでも政府にいくつかの提案をし、実施された。

 著書に「オバマへの手紙」(文春新書、1095)、「ブランチにニュースなコラムを」(南々同)、「世界のリーダー185人ヒロシマ、ナガサキで発した言葉」(同)など。

 月刊誌「リベラルタイム」に「ブランチにコラムを」を連載、ブログ「徒然エッセイ」(http://pict-dd.cocolog-nifty.com/tsurezure/)も。

 

                                                                                                  

 

 

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2023年6月12日 (月)

徒然エッセイ第77話 G7広島サミットとゼレンスキーと私

 基軸通貨ドルと金の交換停止というニクソンショック(1971年)、第4次中東戦争(1973年)によるオイルショックで、あの頃、世界経済はカオス(混沌)の中にあった。一方、ウオーターゲート事件でニクソン米大統領が辞任(1974年)、国際政治におけるアメリカの力は地に堕ちていた。そんな状況下でフランスのジスカールデスタン大統領が提唱して1975年にスタートしたのが主要国首脳会議(当初は6か国、翌年から7か国)だ。そのG7サミットは広島開催で49回目(2020年のアメリカでのサミットはコロナやその他の理由で中止)、広島サミットは歴史に残る特筆すべきサミットになった。隣国から侵略され、戦禍にある国の元首が、G7に対面(リアル)で参加するなど前例があろうはずがない。私は読売新聞の記者時代、日本国内での開催やアメリカ、イギリス、フランスでのサミット取材の経験を持つが、こんなサプライズに出くわしたことは一度もない。

 外交専門誌「外交」から広島サミットの特別企画への執筆依頼を受けた。私のキャリアに加え、この10年余、広島に住み、広島のメディアに関わる一人として「ヒロシマ」を定点観測してきたからの人選らしい。また、2016年5月のオバマ米大統領の広島訪問実現に多少とも関与したことも関係があるようだ。そこで他の執筆者の視点と重ならないよう、極力、開催地・広島にフォーカスを絞り検証したい。

ゼレンスキーとフランスの極秘リンクに振り回される

 本論に入る前にウクライナ・ゼレンスキー大統領の「電撃」広島訪問に関し、私の周辺でのファクトを記す。私もゼレンスキー関連の情報に振り回された一人なのだ。私事だが私は広島日仏協会会長の役を引き受けている。このためフランス政府関係者とは交流がある。サミット前にも東京のフランス大使館や京都の総領事館を訪れたりしていた。サミットが迫る5月初旬にメールでこんな連絡を受けた。「大統領に同行予定だったマクロン夫人のブリジットさんが訪日できなくなった」という内容だった。実は、宮島・厳島神社のある広島県廿日市市とフランスのモンサンミッシェルはともに「海の宗教施設」として姉妹都市関係にあり、日仏協会会長の私と松本太郎市長がサミット期間中にマクロン夫人に面会することになり、アポイントももらっていた。このため、夫人が来日しないことは肩透かしを受けた形になった。訪日しなくなった理由も示されず、相前後して、当初「マクロン大統領は直接、広島空港に入る」と聞いていたのが「途中どこかに寄るかもしれない」と変わった。さらに他のサミット参加首脳は18日夕までに広島入りするが「マクロン大統領だけは遅れてサミット初日の19日朝になる」との情報も入ってきた。

 岸田文雄首相が3月の連休にウクライナを「電撃訪問」した際、ゼレンスキー大統領は「広島サミットへのオンライン参加」することで合意し、公表もされていた。しかし、4月末にウクライナ政府から「広島へ行きたい」との「強い要望」が首相官邸に伝えられたという。イギリスのスナク首相が「広島へ行って各国首脳に直に話すべきだ」と背中を押したとされる。これを受け、日本の首相官邸と外務省、警察庁のごくごく限られたメンバーで「この数週間、その可能性を極秘に探っていた」という。

 一方、サミット開幕の週が始まる月曜日の15日朝、ロイター電が「Exclusive」(独自電)として記事を1本の記事を配信した。ワシントンとベルリン発の記事で、見出しにはないが長文の原稿末尾に次の一文があった。「彼(ゼレンスキー大統領)は広島サミットでG7の首脳に『either virtually  or  in-person』会うだろう」。「virtually」はオンライン参加のことでこれなら予定通りだ。「in person」(直に会う)が注目された。日本外務省は広島県庁にこれを「連絡」した。ただ「本日、外電がこう報じた」というコメント無しの「一応のお知らせ」という程度だった。

フランス政府専用機でゼレンスキーが広島入り

 しかし、ロイター電を知り、前記フランスからの情報もあった私は「?」と思い始めた。また、ゼレンスキー大統領はサミットの前の週に英、独、仏、伊の首脳やローマ教皇と相次いで会談していた。もし、当初予定通りのオンライン参加なら、サミット議長の岸田首相がゼレンスキー大統領に電話して、欧州首脳と同様の直近情報を掴もうとするはずだ。しかし、その動きはなかった。これを見る限り議長が「蚊帳の外」となりかねない状況だった。「おかしいな」と私の中で勝手に「フランス」と「ゼレンスキー」が繋がり始めていた。「マクロンがゼレンスキーと一緒に広島入りするので夫人が来ないのかな」と想像が広がったが、それ以上は確認する術がなかった。ところがサミット開幕前夜の18日夜に「ゼレンスキーが広島に来る」という情報が流れ、メディアは大騒ぎになった。ただ、マクロン大統領は19日朝、広島空港に到着したがゼレンスキーは一緒ではなかった。彼はサウジアラビアのアラブ連盟会議に参加していたが、しばらくして「ゼレンスキー大統領はフランスの政府専用機で広島に向かっている」という確かな航空情報まで入って来た。20日午後、ゼレンスキーはフランスの政府専用機で広島空港に着き、タラップをカーキ色の上着姿で早足に降り立った。

 一方、岸田首相はサミットのセッション日程を変更し、最終日にウクライナ関連を移した。ゼレンスキー大統領はG7首脳との個別会談や招待国を交えた拡大会議、インドやインドネシアの首脳とも会談した。彼は平和記念資料館(原爆資料館)で被爆者・小倉桂子さんの被爆体験を聞き「深く感銘した。世界中のどの国もこのような苦痛や破壊を経験することがあってはならない。現代の世界で核による脅しの居場所はない」と芳名録にウクライナ語の言葉を残し、戦地に戻って行った。ゼレンスキーの広島「電撃」訪問に日本、ウクライナ、フランス政府が極秘に関わっていたことは確かである。アメリカも関与していたのではないかと思う。

海外メディアが沸点に

 広島サミットはゼレンスキー大統領の登場により世界のメディアに注目されたことは否定できない。中には「ゼレンスキーによって広島サミットがハイジャックされたみたいだ」と感想を漏らすメディアもあった。しかし、私は実態は少し違うと思う。私の過去のサミット取材経験から見ても、これほど事前に注目されたサミットはない。それは私が広島に住み、盛り上がりを肌で感じたからではない。もちろん「G7広島サミット県民会議」(会長=湯崎英彦広島県知事)を始めとする地元の“熱狂的“な盛り上げ策は異常だった。しかし、東京の全国紙、キー局や特に海外メディアの注目度は従来になく高かった。ドイツのメディアは広島テレビが展開していた折鶴キャンペーンまで取材に来た。それは人類初の核兵器の惨禍を浴びた「ヒロシマ」での「被爆地サミット」だったからだ。それにロシアのプーチン大統領が核の恫喝を繰り返し、「これはハッタリではない」と脅す状況でのサミットであることが重なった。「ヒロシマ」のメッセージ性と「ウクライナ」のニュース性が重なり合って注目度を高めていた。もともと海外メディアからも高い関心を集めていた「G7被爆地・広島サミット」がゼレンスキー大統領の電撃出席によって、それが沸点まで到達したと見るのが正しいと思う。

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