第95話 「反自民」という世論の振り子の行方
全国に「保守王国」は、あまたある。ただ、「島根」は別格中の別格だった。衆院の小選挙区1、2区とも1996年の小選挙区比例代表並立制導入以来、自民党が議席を独占し続けてきた。47都道府県で唯一だ。「王国の中の王国」といわれた所以である。その島根1区で自民が完敗した。東京15区、長崎3区も併せ、衆院補選(4月28日)で立憲民主党が全勝した。自民党政治資金パーティのウラ金問題に対する国民の「怒り」が沸点に達している証左だ。保守層も含め、自民党をバッシングしたい感情が鎮まっていない。
島根といえば竹下登元首相を思い出す。県議出身で「島根に生まれ、島根に育ち、島根の土になる」が口癖だった。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」は「気配りの人」と野党からも評された。典型的な「昭和の政治家」だった。大平正芳、中曽根康弘内閣が失敗した消費税創設は戦後の政治年表に刻まれる。「平成」という元号も複雑な経緯の中、人知れぬ気配りで自ら決定した。
その島根での補欠選挙、しかも連戦連勝だった細田博之・前衆院議長の死去に伴う選挙。「弔い合戦」は死亡した側の自民優位のはずが、完敗、惨敗だった。メディアの出口調査では無党派層はもとより、自民支持層も3割近くが立民候補に投票した。ウラ金問題で内部からもNOを突きつけられたのだ。
ただ、この現象はいつかどこかで体験した既視感がある。「デジャブ」といわれる。ロッキード事件後の76年総選挙では、「金権」「密室」「長老政治」の自民党の体質に非難が集中した。自民党を離党した河野洋平氏らが新自由クラブを結党、「クリーン」「オープン」「若さ」を前面に躍進した。自民党は大きく後退し、日本の政治は与野党伯仲時代に入り、新自由クラブとの連立に繋がっていった。しかし、「ブーム」は長続きせず、新自由クラブ内部の意見対立で議員の離党→自民復党が相次ぎ、新自由クラブは解散、消滅した。
89年、リクルート事件で竹下登内閣が総辞職、宇野宗佑首相へと「本の表紙」を変えた。しかし、宇野首相の女性スキャンダルが発覚、参院選で自民党は惨敗。土井たか子委員長率いる社会党が大躍進、衆参ねじれ国会が出現した。当時の橋本龍太郎幹事長は「リクルート、消費税、スキャンダルのトリレンマの中での大敗だった」と嘆いた。社会党には大量の「土井チルドレン」が誕生、土井氏は「山が動いた」と大見得を切った。だが、その後は急速に尻すぼみ、党名を「社民党」に変えたが、現在、両院で一桁の議席しかない「ミニ政党」になっている。
93年総選挙では日本新党、「さきがけ」等の「新党ブーム」に沸き、8党派連立で細川護熙政権が誕生した。自民党は1955年の保守合同後初めて政権から下野せざるを得なかった。しかし、連立政権は寄り合い所帯がもたらす内紛が絶えず、それに細川首相のスキャンダルが重なり、わずか8カ月半で崩壊、引き継いだ羽田孜内閣も64日間の超短命で瓦解した。
小選挙区比例代表並立制で2009年総選挙の結果、鳩山由紀夫内閣が成立したものの、わずか9カ月余で退陣、菅直人氏、野田佳彦氏へのリレーで凌いだが、各15カ月、民主党政権はトータルでも3年余で終焉した。「世論」は振り子を自民党に戻した。
これらには近似した構図がある。政権党の「カネ」にまつわるスキャンダルや内紛→国民の怒り沸騰→政権党へのバッシング→政権交代→新政権内部の遠心力→短命政権。この細切れな政治の不安定が日本の「失われた30年」の一因であることは否定できない。
そもそも「反自民」というキャッチコピーはそれだけで選択を問う「旗印」たりえるのだろうか? 「ブーム」は常に儚いもの。いつしか萎んでいった過去を何度も知るだけに、またもあの既視感が再現しないかと構えてしまう。
「反自民」は「あの指(自民党)を懲らしめたい人集まれ」という反作用の力学。積極的結集というよりも、消去法の論理だ。本来、政権選択を国民に求める選択肢としては不十分だ。野党第一党は政権交代を迫るのならば、最低限でも衆院の過半数の候補者を擁立して、過半数の獲得、それが無理でも少なくとも比較第一党すべきである。「野党連携」で挑むのなら政権構想と基本政策、つまり「この指」を明確に示して選択を求めるのが王道だろう。
「世論」は往々にして移ろいやすい。「ブーム」が消えると「バブル(泡)」も萎むのが経験則だ。芥川龍之介は「世論は私刑、私刑は娯楽」と冷徹な眼で見ていた。「今回だけは例外だ」というなら野党は「反自民」を超えた「この指」を掲げ、有権者も確固たる信念で選択に向き合いたいものだ。
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