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2025年7月

2025年7月17日 (木)

第119話  今、あえて考える歴史の「if」。「終戦」への不決断の責任を問う

戦後80年、終戦前半年間の「不決断」を問う

              広島テレビ顧問・広島大学特別招聘教授  三山 秀昭(月刊「潮」2025年8月号、特別企画「戦後80年目に語り継ぐ」)

 間もなく8.15を迎える。私たちはこの日を「終戦」記念日と呼んでいる。80前戦争に敗れたのに、なぜか「敗戦」ではなく「終戦」と言い続いている。そこにはこんな経緯がある。当時の外務省・安東義良政務局長がこう言い残している。「言葉の遊戯だが、『降伏』の代わりに『終戦』を使った。僕が考え『終戦』で押し通した。『降伏』と言えば軍部を刺激し、国民にも相当の反響があるだろうから事実をごまかそうと思った」。玉音放送も「終戦」の「詔勅」だ。ただ、これは戦時中に「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言いくるめた大本営発表に通じるものがある。この思考パターンにこそ日本が戦争責任を曖昧にしてきた「水源」があると思う。

 日本は戦後すぐに連合国軍総司令部(GHQ)の統治下に入り、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯が裁かれた。しかし、それ「勝者、連合国による裁き」であり、東条英機元首相ら開戦責任がもっぱら問われたもので、実は日本は今日まで「戦争責任」を自ら主体的に検証していない。この項では終戦の年の1945年2月のヤルタ会談から半年間に絞り、当時の戦争指導者の「不決断」にフォーカスを当ててみたい。名著「失敗の本質」(中公文庫)では、開戦時やいくつかの戦線での判断ミスが批判されているが、不都合な情報を軽視する「正常性バイアス」や国際情勢全般を俯瞰する大局感の欠如、「撤退の不決断」もまた「開戦責任」と同様に重たい責任だ。ヤルタ会談から終戦に至る時の経過を縦軸に、国際情勢を横軸に、それらをクロスさせ、「半年間の不決断」が沖縄、広島、長崎などに与えた甚大な被害を再検証する。 

すべてはヤルタ会談の情報握りつぶしから

 1945年2月4日から1週間、当時のソ連、今のウクライナ・クリミア半島の保養地ヤルタのリヴァディア宮殿にルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相が集結した。旧ロシア皇帝ニコライ二世の離宮だった小高い丘にそびえる宮殿で、3首脳は黒海を見下ろしながら第二次世界大戦終了後の「獅子の分け前」を語り合った。この時点ではドイツも日本もまだ徹底抗戦中だ。ドイツ降伏前に米英ソ仏で戦後のドイツの分割統治を語っているのだから、いかに戦況が確定的だったかを物語る。戦後の国際秩序確立のため「国際連合」の創設まで話し合ったというから驚くほかない。

 日本に対しては「ドイツ降伏後3か月以内にソ連が対日参戦し、サハリン(南樺太)、千島列島、北方領土をソ連に割譲する」との手形が切られている。スターリンは釧路と留萌以北の北海道も要求したが、さすがにルーズベルトはそれを拒否した。

 超大国3首脳が大量のスタッフを連れて日本から見れば中立国のソ連・ヤルタで1週間も会談したことに日本は全く気が付かなかったのか。この時の「小野寺電報」が語り草だ。中立国スウェーデンで陸軍武官として駐在していた小野寺信(元陸軍少将)は「ドイツ降伏3カ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦する」という極秘情報をつかみ、本国・陸軍中央部に打電していた。しかし、なぜかその電文は残されていない。「大本営作戦課で握りつぶされたようだ」(元大本営参謀・堀栄三氏)。当時、「ソ連が対日政策を変えたようだ」という趣旨の情報は、スイスやポルトガルの駐在武官からも伝えられ、ドイツ駐在の大島浩大使も「『ヤルタ会議の結果、ロシアが適当な時期に対日参戦する』との独外相の伝言を本省の政務局長に電話した」と語っている。戦時中の日本として中立条約を結ぶソ連は外交の中核であるはずが、「ソ連が米英に寝返るかもしれない」との情報を「握りつぶした」とすれば、その責任は極めて大だ。「不都合なことは無視、軽視する」するという「正常性バイアス」は終戦までの過程で何度も何度も嵌った落とし穴だった。「情報が真剣に対応されていれば・・」とifを考えざるを得ない。 

首都・東京の大空襲と沖縄戦

 ヤルタ会談から1か月、3月10日、米軍は東京下町を中心にB29による大量無差別の焼夷弾爆撃を敢行した。一晩で罹災者は100万人以上、死者は10万人にも達した。この死者10人という数字は長崎原爆(原爆投下から年末までに7万4千人)の死者数を上回っていることに留意すべきだ。前年から主要都市への空襲は続き、政府は皇居への攻撃も懸念し、当時の明仁親王(現上皇)を奥日光へ避難させていたほどだ。しかし、首都・東京が大空襲で甚大な被害を受け、後に天皇になる明仁親王を疎開させていた状況下でも軍中枢からは和平→終戦の声が上がらなかった。

一方、沖縄では3月末に米軍が上陸、地上戦が6月末まで続き、沖縄県民の人に1人が犠牲になる悲惨な結果になった。日本軍中枢には「沖縄は本土決戦までの時間稼ぎ」という「沖縄捨て石作戦」という考えがあっただけに、今も沖縄人には「東京大空襲で降伏を決断していたなら、沖縄は犠牲にならなかった」という気持ちが強い。海軍は一応、戦艦「大和」を沖縄に向かわせたが、制空権がほどんどない中、鹿児島県坊ノ岬沖で撃沈され、乗組員3332人のうち3056人が散った。当時の指揮官の一人は「一億総特攻だ」と命令したが、「統率の外道」というほかない。 

ソ連、中立条約不延長通告の意味の解釈

 4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使に「中立条約は来年延長しない」と通告した。日ソ中立条約は1941年4月から期間5年の条約で、延長しない場合は1年前に通告することになっていた。ソ連は規定通りの手続きを踏んだのだが、それが意味する政治的意図は余りに大きい。誰の目にも「縁切り宣言」であることは明らかだ。それでも「条約破棄ではない。残り1年は有効だ」と受け止め、「ソ連の仲介で米英との和平に持ち込もう」という動きが政府内にあった。「不都合なことも都合よく解釈したがる」ご都合主義だ。戦後、私たちは「ソ連が中立条約を一方的に破って対日参戦した」と教えられたが、予兆は十分にあったのだ。 

終戦へ向けた鈴木貫太郎内閣だったが・・。

 4月7日、小磯國昭内閣が総辞職、鈴木貫太郎内閣が後を継いだ。戦争中の首相は開戦時の東條英機が陸軍大臣を兼務し、次の小磯は陸軍大将、朝鮮総督経験者で、いずれも軍人出身、これに対して鈴木は天皇の侍従長を7年務めた側近中の側近で、天皇の信頼は絶大だった。枢密院議長を経て天皇の強い要望で首相に就任した。「天皇の御心を受けた、和平へ向けた内閣」だった。しかし、鈴木首相や東郷茂徳外相が和平路線なのに対し、「徹底抗戦」を条件に内閣入りした阿南惟幾陸相の抵抗で内閣は機能不全が続いた。

 この間、米国ではルーズベルト大統領が死去、憲法の規定でトルーマン副大統領が大統領に就任したが、選挙の洗礼を受けていない大統領は軍にも議会にも弱かった。一方、欧州戦線ではドイツのヒトラーが自殺、5月8日ついにドイツが降伏した。日独伊三国同盟のイタリアは前年秋に早々と降伏していた。「ドイツ降伏」はもちろん日本の戦争指導部にもたらされた。しかし、ここでも「米国にどこかで攻勢をかけ、和睦に持ち込もう」という“一撃講和論”や、この期に及んでも「ソ連の仲介期待」という“小田原評定”が続くばかりだった。

  ポツダム宣言「黙視」という愚挙

 アメリカは7月16日にニューメキシコ州アラモコードで初めての原爆実験に成功した。そしてトルーマン米大統領とチャーチル英首相、スターリン・ソ連首相は、占領したドイツ・ベルリン郊外のポツダムで巨頭会談を開いた。(7月17日から25日)。トルーマンはスターリンには原爆実験成功を極秘にしたまま、会談を有利に展開、日本に無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を公表した(7月26日)。ただ、この時点ではソ連は対日参戦していないので米英と中国による発表だった。

 これに対し日本政府は閣議で「国体護持(天皇制維持)が不明確」「ソ連が署名していない。ソ連の仲介の余地はないのか」などと議論がは右往左往。一方で「拒否すれば米英を刺激する」として「当たらず、触らずの静観」を決め込んだ。さすがにそれでは曖昧過ぎるとして、鈴木首相が記者会見、「ポツダム宣言を重要視しない」を繰り返した。日本の新聞はそれを「黙視」と伝え、米英は「拒否」と受け止めた。

 こうして8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連の対日参戦、長崎への原爆投下に繋がる。結局、御前会議(8月9日、10日、14日)での「陛下のご聖断」を待つまで何も決まらなかった。玉音放送(8月15日)前日にも大阪・京橋などでの空襲で無辜の民が非業の死を遂げ、ドイツの降伏後の3か月間だけで全国で60万人もの人命が失われていることに慄然とせざるを得ない。 

歴史にifはない」のか。

 歴史に「if」はないのかもしれない。ただ、「終戦に至る半年間の不決断」を素通りしての「検証」は意味をなさず、教訓にもならない。時系列的に見て東京大空襲の時点で日本の戦争指導部が和平に舵を切っていたならば、沖縄、広島、長崎の惨劇はなかった。ドイツ降伏時に日本も降伏していたら、沖縄戦の後半、特に激烈を極めた南部戦線での多数の民間人の犠牲はなかった。さらに7月時点でポツダム宣言を受諾していたら、広島、長崎への原爆投下はなかったし、ソ連参戦を阻止でき、北方領土を奪われることもなかった。米国の核実験成功はポツダム宣言の10日前だが、日本が宣言受諾しておれば米国は「投下」できなかった。結局、日本の不決断が「核の使用」を許してしまったことになる。戦後、米国に続き、ソ英仏中が核開発に成功、今、9か国が保有国だ。一方、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争では前線で核使用の要求があったが、指導者は3度目の「核投下」には踏み切らなかった。戦後80年、長崎以降、核兵器は一度も使われていないことも認めなければならない事実だ。その正邪は別として「相互確証破壊」は核保有国が最も恐れる論理である。7月の時点での日本がポツダム宣言を受諾していれば、今日でも「地球上に核は存在するが、使われない兵器であり続けたかもしれない」と考えるのは楽観に過ぎるだろうか。

 長年、被爆地で定点観測する身として、「8.6の悲惨な被害」の側面だけがフォーカスされ、なぜ、そうなったかの議論が置いてきぼりになっている、と感じる。また、「核廃絶」がスローガンに留まっているいることに「何かが不足している」ともどかしさも感じる。「戦後、被爆80年」、カオス(混沌)を極める世界にあって、歴史観と地球儀と交差させた国際情勢を俯瞰する視点が今こそ求められる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<太平洋戦争の経緯>

19319     満州事変(柳条湖で満鉄爆破)

1932.3.1     満州国建国宣言、国際的対日批判→33年に日本が国際連盟脱退

1937.7     日中戦争(盧溝橋事件)・・→12月首都南京占領。

1939.9.1      ドイツ、ポーランドに侵攻(第2次世界大戦)

19409.27   日独伊三国同盟。米国、対日エネルギー制裁

1941.4.13    日ソ中立条約(5年)

   12.8    真珠湾攻撃(対米英開戦=太平洋戦争)

1942.6.57  ミッドウェー海戦日本惨敗、以後、連戦敗退続く 

1943.11.2812.1テヘラン会談。米、英、ソの首脳が対独戦略

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1945.2.411  ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)。ドイツ分割やド   

イツ降伏3か月後に対日参戦など密約。スウェーデン駐在の日本人武官

がソ連参戦の可能性を打電するも陸軍黙殺。

3.10     東京大空襲(10万人死亡)

3.266.23  沖縄戦(80万人中20万人死亡)

4.5      ソ連、日ソ中立条約(46年まで)不延長通告

4.7      小磯國昭内閣→鈴木貫太郎内閣

4.7      戦艦大和撃沈。3056人死亡。

4.12     ルーズベルト死去→トルーマン就任

5.8      ドイツ無条件降伏(ヒットラー自殺=4.30

7.16      米国、原爆実験に成功(NM州アラモード)

7.1725   ポツダム会談。

7.26      ポツダム宣言(米、英、中国署名。ソ連署名せず)。日本黙視。

8.6      広島に原爆投下。年末までに14万人死亡。

8.9       ソ連、対日参戦。満州、樺太、北方領土占領、95日まで。

長崎に原爆投下。年末までに7万4千人死亡。

8.9      最高戦争指導会議開催。

8.10      御前会議、ポツダム宣言受諾内定

8.14      御前会議、ポツダム宣言正式受諾。中立国通じ連合国に通告。

8.15      敗戦、玉音放送(5月のドイツ降伏後の3か月で60万人死亡)

8.30         マッカーサー厚木に到着、GHQ統治開始。

9.2          東京湾上のミズーリ号で、重光全権が降伏文書に正式調印

第118話 追悼「ミスター」長嶋茂雄さん余話

長嶋茂雄と広島 

「私はカープファンですが、長嶋さんだけは好き」。広島にはこんな長嶋ファンも多い。そんな誰からも愛された「ミスター」が逝った。私は読売新聞の渡邉恒雄社長、巨人軍オーナーの秘書部長、秘書役として、長嶋茂雄さんが1992年秋に2度目の監督に就任するプロセスからオーナーと監督の連絡役だった。また、長嶋さんがアテネ五輪のJAPANの監督を引き受け、2004年に病魔に倒れた際は、私は巨人の球団代表として長嶋さんとは濃密な関わりを持った。その一端は月刊「FACTA」7月号に「至近距離で見たミスター」として追悼文を書いた。月刊「春秋」からは「長嶋茂雄と広島」について執筆を依頼された。実は長嶋さんとカープは因縁浅からぬ仲なのだ。30年余の長嶋さんとの友誼に立って、「追悼 長嶋茂雄と広島」を綴る。

幻のホームランは対カープ戦

 1958年プロ野球人としてデビューした長嶋は、開幕戦で国鉄の400勝投手金田正一から4打席4三振のプロの洗礼を受ける。ここまではよく知られたエピソードだが、長嶋は「実は翌日の1打席目でも三振したので、私は5三振デビューなのです」と語っていた。その年の919日のこと、後楽園球場での対広島カープ戦5回裏、長嶋はカープの鵜狩道夫投手から左中間スタンドにホームランを打った(はずだった)。これが「幻のホームラン」となる。長嶋は一塁ベースを踏み忘れて2塁に向かい、ダイヤモンドを一周してホームイン。鵜狩投手は新たなボールを一塁手に投げ、審判もベース踏み忘れを見ていてアウトの宣告。長嶋はアクション入りで抗議したが、判定は覆らず、記録は投ゴロ。試合はカープの勝利に終わった、このシーズン、長嶋は打率3割5厘、盗塁37、ホームランは29本で2冠、新人王に輝く。このベース踏み忘れがなければ新人初の「トリプルスリー」の大記録だった。これを「痛い教訓」にサード長嶋は64年と71年に対大洋(今のDena)戦で、相手チーム選手の3塁ベース踏み忘れを見逃さず、アウトにした。「あの時のカープさんのおかげです」は長嶋の弁。 

最下位でも古葉監督と対談

 1974年、長嶋は17年間の現役選手を「わが巨人軍は永久に不滅です」の名スピーチを残して引退した。翌75年に監督になるが、「選手長嶋がいない巨人で、王選手も下り坂」のチームの戦力ダウンは明らかでセリーグ最下位に終わる。この年に優勝したのが古葉竹識監督率いる広島カープ。後楽園球場の対ジャイアンツ戦で優勝を決めた。カープは球団創設以来の初優勝だ。ある新聞がカープ優勝が決まった日に古葉監督と長嶋監督の対談を企画した。「向こうは最下位ですからね。そんな対談、長嶋さんは断るだろうと思ったのですが、どういうわけか受けてくれたんです。こちらは優勝ですから、祝勝会やらいろんな取材が重なり、かなり時間が経っていたんです。さずがに長嶋さんは待っていないだろうと思いながら指定されたホテルに行ったら、彼はいたんです。驚きました。優しいですね。対談では『来年は絶対ウチ(巨人)が優勝しますからね』言われたが、事実、その通りになりました」と古葉さん。翌76年、巨人は広島市民球場でカープを破ってVを決めて胴上げ。前年のリベンジを果たした。2年越しのドラマだ。 

「市民球場まで歩こうよ」

 2度目の長嶋監督時代、巨人は広島ではリーガロイヤルホテルを定宿としていた。市民球場は道路1本挟んですぐ隣、歩いて5分もかからない。ただ、ファンの整理や警備の関係からチーム全員が一緒にバスで移動していた。ところがある日、監督は「すぐそこじゃないか。歩こうよ」と言い出し、歩いての移動となった。警備陣は大変だったが、敵地でもファンを大事にする長嶋監督の考えに従うしかなかった。また、やはり市民球場で雨が降り続き「試合は無理」と判断した監督、さっさと広島駅へ向かい、帰京しようとした。しかし、雨が上がり、試合は可能に。マネージャーが駅までタクシーを飛ばし、監督を連れ戻したこともあったとか。 

名無しのサイン

「カープファンだが熱烈な長嶋ファン」という人が広島にいた。知り合いのカープのフロントを通じて「どうしても長嶋さんのサインを」という無理な注文があった。フロントのスタッフが長嶋監督にお願いしたら「ああ、いいですよ」。長嶋は色紙に「野球というスポーツは人生そのものだ!」と筆を走らせた。ところが後日色紙を受け取ったファンは「あれっ、長嶋さんの名前がない」。長嶋は肝心な自分のサインを忘れてしまったらしい。そのファンは「これはかえって珍しい。宝物だ」と大事に持っているとか。 

「一茂をカープに入れたかった」

 東京6大学のスターだった長嶋は当時ドラフトがなかったこともあり、多くのチームが獲得に動いたが、最終的に長嶋は「巨人」を選んだ。ただ、同じ6大学の立教で活躍した長男一茂のプロ入りについて、父親・長嶋茂雄は「カープに入るのがベスト」と考えていた。しかし、一茂の時はドラフトがあり、ヤクルトに入団した。初期は活躍したが、野村克也監督にはあまり出場の機会を与えられず、二軍暮らしだった。長嶋は2度目の巨人監督に就任した際、「恥ずかしながら、親バカと言われようとも」と巨人に引き取った。長嶋は「一茂はカープみたいな球団で育ててもらうのが一番良かった」と周囲に漏らしていた。

 数々の長嶋語

 少しは知られている話だが、長嶋が立教大学時代、英語の授業で「I live in TOKYO」を過去形にせよ、との問題が出たという。長嶋の答案は「I live in EDO(江戸)」。私はこの話は余りに面白過ぎる作り話だろうと思っていた。しかし、当の英語の先生が東京新聞のコラムに「実話」として書いた。私は新聞のコピーを長嶋さんに見せ「これは本当の話ですか」と聞いた。「エー、まーそんなところで、エヘヘ」。私は調子に乗って「ところで監督は立教では何学部でした?」と失礼を顧みず聞いたら「野球学部でした」。ちなみに長嶋は経済学部経営学科だった。

 選手時代、V旅行でハワイに行った時の話。レストランで川上監督はチキンを頼んだ。王選手は「Me too」と監督に従った、長嶋は「Me three」。アメリカのベロビーチでのキャンプの際、「アメリカの子供たちは英語がうまいね」。東京五輪のコンパニオンだった亜希子さんに猛アタック、デートしているのがスポーツ紙に見つかった。「あの、すみません。私たちにもデモクラシーがありますので???」プライバシーのことらしい。

 監督として松井秀喜選手を徹底的に鍛えた。「マツイ!もっとオーロラを出せ」。オーラのことらしい。ファンから「私は長嶋さんと同い年なんです」と言われ「そうですか?何歳ですか?」。風邪で熱が出た際、スタッフから「熱は?」と聞かれ「378厘です」。監督時代、巨人が優勝の可能性が少なくなった時、スポーツ紙の取材に「ジャンアンツは最後までNever Give up しませんから」。寿司屋で魚の名前が書かれている茶碗を見ながら、「エーッと、魚編にブルーは鯖(サバ)でしたよね」。とにかく、カタカナ英語の達人だった。ユーモアには舌を巻くしかなかった。「ミスター」はどこまでも誰にでも愛され、人を喜ばせ、笑わせる名人だった。

突然の電話

 監督には役目がら私の携帯電話の番号を伝えていたが、ある日、私の自宅に電話が掛かってきた。妻が出た。妻は「長嶋さん? ?どちらの長嶋さんでしょうか?」「ご主人の知り合いの長嶋です」。「あなた・・。長嶋さんという人から電話よ」「バカもん、あの長嶋さんだよ」と受話器をもぎ取った。妻は「ジャイアンツの長嶋さんだったの? まさか家に掛かってくるとは思わないもん」と言い訳した。長嶋さんは人を驚かす名人だった。 

「長嶋さん、あなたの記憶は永遠に不滅です」

「ミスター、あなたは自ら『記憶の長嶋でありたい』と言っていましたね」。「長嶋さん、あなたの記憶は永久に不滅です」。手元には2000年のON日本シリーズを制した際、あなたが、目の前で書いてくれたサインボールがある。「1028 優勝 長嶋茂雄 3」とある。この「宝物」を傍らに合掌。

第117話 追悼 長嶋茂雄さん 至近距離で見た「ミスター」秘話

  目の前に「宝物」のサインボールを置いてこの原稿を書いている。「2000!NPB」(日本プロ野球機構)「NIPPON SERIES OFFICIAL BALL」の刻印がある。そこに長嶋さんの手書きで「2000.10-28 優勝 長嶋茂雄 3」とサインがある。20世紀最後の年、ついにON日本シリーズ対決が実現した。長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと王貞治率いる福岡ダイエーホークスの夢の対決だった。ジャイアンツは2連敗の後3連勝、私は10月28日の第6戦を東京ドームで観戦していた。偶然、ファールボールが私の席に飛んできて運よくそれを拾うことができた。その日、長嶋ジャイアンツは日本一に輝いた。

 長嶋監督は2日後の30日昼、「日本一」の報告のために読売新聞社の本社に渡邉恒雄・巨人軍オーナーを訪ねた。その後に銀座でのパレードが控えていた。当時、私は渡邉社長の秘書役だった。長嶋さんはいつものように約束の時間の30分前には到着され、トイレできちんと身だしなみを整えられ、オーナーとの面談に備えていた。その日、オーナーは前のお客との面談が続いていたため、控室で秘書役の私が少しだけお相手をした。2日前にたまたま手にしたファールボールを長嶋さんに見せて「日本一の記念にサインを頂けますでしょうか」とお願いしたら、「ああ、いいですよ」と気軽にサインペンを走らせてくれたのだ。あれから25年、4半世紀が経った。そして「ミスター」は逝った。

 国民的英雄の死にメディアは大特集を組んだ。スポーツ紙はもちろん一般紙も一面で大扱い、社説、コラム、特集で報じた。「号外」も発行された。テレビは「秘蔵映像」を繰り返し流し、往時を偲んだ。米紙ニューヨークタイムズまでが「MR.Baseball NAGASHIMA」を戦後の日本の歩みと掛け合わせて報じた。多くの評伝、解説、哀悼の言葉が語られた。週刊誌、月刊誌は特別号「秘蔵版」を発行、特集が1か月以上も続く異例の展開を見せた。一人の民間人の死に対する報道としては前代未聞と言うしかない。彼が「スーパースター」だったことが改めて再認識させられた。「FACTA」の宮嶋巌編集長から「一般には報じられない角度で至近距離から見た長嶋茂雄を書いてほしい」と頼まれた。多くの報道の隙間を縫う形で、私が実体験した「ミスター」を綴る。

 200434日、長嶋茂雄さんは病魔に倒れた。この日午前9時に長嶋邸に迎えの運転手が到着した。ゆとりを持っての迎えだった。しかし、なかなか長嶋さんは出てこない。当時、長嶋さんは2度目のジャイアンツの監督を勇退しており、この夏のアテネ五輪の「JAPAN」の監督の立場で日程は不規則だった。すでにアジア予選を通過し、本番を待つばかりだった。ただ、長嶋さんは日頃から手帳を持たない人で、日にちや時間の勘違いが時々あった。だから運転手も余裕をもって待機していることが多かった。しかし、10時になっても10時半になっても長嶋さんが姿を現さないため、運転手は11時に長嶋邸に入った。呼びかけても反応がないので寝室まで入ったら、長嶋さんがベッド脇に倒れていた。当時、亜希子夫人は別の場所で病気療養中、長嶋さんは言わば独り暮らしだった。運転手は長嶋さんを担ぎ、車に乗せ、掛かりつけの東京女子医大病院に運び込んだ。「脳梗塞」の診断、かなり危険な状態で緊急手術となった。何とか一命は取りとめたが左脳に拘束があり、言語機能と右半身に麻痺が出る可能性があり、実際そうなった。症状から逆算していつ発症したかは推測できるが、正確には発症からどの程度経っているのかはわからなかった。当時、私はジャイアンツの球団代表で、長嶋さんは巨人軍の終身名誉監督なので、広報対応は巨人軍の広報部が担当することになり、様々な対応に追われた。

 実は私は長嶋さんが病魔に襲われる2日前に2人だけで話し込んでいる。3月2日夕方、東京都内のホテルで「燦燦会」が開かれていた、巨人軍を応援する経済人たちの集まりで、1993年に長嶋さんが二度目の監督に就任する際に結成された会。当時、私は読売新聞社長で、巨人軍の渡邉恒雄オーナーの秘書部長だった。社長から「何かよい会の名前を考えよ」と言われ、長嶋第2期監督の背番号は33だったので、それにちなんで「燦燦会」を提案した。オーナーは「少し難しい字だな」と即決してくれなかったが、「背番号33に繋がるし、太陽が燦々と輝くのは長嶋さんらしくてよいのでは」と説明すると「よし、それでよい」と決まった経緯があった。

 04年の燦燦会では長嶋さんは巨人軍前監督として挨拶した。独特のカタカナを交えた愉快な“長嶋語”のスピーチだった。ただ、当時の私のメモには「長嶋さんらしい明るい話だが、何か話が行きつ戻りつしていたな」と綴っている。会が終わろうとする時、長嶋さんが私に声を掛けて来て「実は困ったことがあります」と深刻な表情だった。控室で二人だけで話し込むことになった。

 「三山さん、アテネ五輪には各球団から二人ずつ選手を出してもらうはご存じですね」「もちろんです。私も実行委員会のメンバーで、日本代表組織員会でも確認し、各球団は全面協力することになってます」「ところがセリーグのA球団(長嶋さんは実名を挙げた)が非協力的で私が希望する選手を出してくれません。三山さんが実行委員会で問題提起するなど何とかしてくれませんかね」「わかりました、早速、動きます」

 アテネ五輪ではそれまでのアマ中心ではなく、プロ選手で最強チームを編成し、五輪発祥の地のアテネで金メダルを目指すことになっていた。しかし、五輪の開催時期がプロ野球の公式戦の最中で、有力選手を五輪に出すと公式戦の戦力ダウンになるため「各球団2人」という縛りを掛けていた。それでもA球団は長嶋監督が希望する選手を出してくれないというのだ。巨人はエースの上原浩治と4番の高橋由伸、広島カープもエースの黒田博樹と足が速くマルチプレーヤーの木村拓也、ダイエーもエースの和田毅と捕手の城島健司、西武もエース松坂大輔と和田一浩外野手、と全面協力だった。しかし、A球団は「公式戦での優勝」に拘わり、有力選手の供出を渋ったのだ。

 私は巨人軍の球団代表になる前から、読売新聞の秘書部長、秘書役として、長嶋さんと渡邉オーナーの連絡役をしていたので、長嶋さんとは何度も話したり、会食を何回も重ねている仲だった。いつも明るく、愉快で、それでいて律儀な長嶋さんだったが、この時ほど憔悴、困憊し切った姿は見たことがなかった。

 それから30数時間後に長嶋さんは病魔で倒れてしまった。もちろん、医学的因果関係があるかどうか、私にはわからない。しかし、専門医に聞いたところ「脳梗塞や心筋梗塞は継続的な心労、極度のストレスが引き金になることがある」と解説してくれた。「ユニホームに日の丸を付けて五輪に参加するということは、かってない興奮と使命の重さを感じる」と語っていた長嶋さんにプレッシャーが覆いかぶさっていたことも一因かもしれない。

 長嶋さんは緊急手術を受けて5日後にはリハビリを開始した。「何が何でもアテネに行くんだ」との強い信念からだった。しかし、長嶋さんが言葉が不自由で右半身に麻痺が残ることが伝わると、球界やスポーツ紙では「長嶋さんにアテネは無理だろう。新しい監督選びを」という話が広がり始めた。その下馬評の一人に選手供出に消極的だった球団の監督経験者も取り沙汰された。これに憤ったのが長嶋さんの長男一茂さん。読売新聞社に渡邉オーナーを訪ね、「父は懸命にリハビリに励んでいます。『アテネへ行く』と頑張っています。そんな時に早々と次期監督の話ですか。父がこのことを知ったらどんな思いをするでしょう」と直訴に及んだ。一茂さんは「渡邉オーナーに二人で会ったのはあの1回きり」と話している。渡邉オーナーは早速、根來泰周コミッショナーに電話で事情を話し、①「長嶋監督」のままでいく②万一、彼がアテネへいけない場合も「中畑清ヘッドが指揮を執り、監督代行はおかない」を確認した。

 しかし、長嶋さんの懸命のリハビリにもかかわらず、担当医は「アテネに行くことは無理。命に係わる」と主張した。長嶋さんは涙を流して「行きたい」と訴えたが、最終的には医師の意見に従い、断念した。アテネ五輪の日本チームベンチには、長嶋監督のユニホームと、「長嶋JAPAN]と印刷され、長嶋さんが左手で「3」と書き込んだ日の丸が掲げられた。日本は銅メダルに終わったが選手たちは「君たちは野球の伝道師だ」という長嶋監督の言葉を胸に刻んで帰国した。 

「長嶋茂雄は野球の星に還りました」(一茂さん)。しかし「4番 サード 長嶋 背番号3」。あのアナウンスは今でも耳に残る。「燃える男」「メイクドラマ」「天覧試合」「スーパーヒーロー」「永久に不滅です」・・・・。

 長嶋さん、あなたへの形容詞、修飾語は数え切れません。あなたの背番号は選手時代の3、監督になっての90、二度目の監督の33、そして永久欠番の3への復帰。そして病に倒れても身体の不自由さを隠そうとせず、見る人に勇気と感動を与えたあなたの勇気ある姿。「あなたの記憶も永久に不滅です」。合掌。

2025年7月 9日 (水)

第116話 「一本の鉛筆」物語

「あなたに聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたい あなたに歌ってもらいたい  あなたに信じてもらいたい」

「一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く」

「一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいと書く 一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと私は書く」

「一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く」

 

少しばかり長い引用になったが、「一本の鉛筆」の歌詞の一部を抽出した。歌詞からわかるように、この曲は人類で最初に「核」の惨禍に見舞われた被爆地ヒロシマをモチーフにしている。

 「鉛筆」は「書く」行為の象徴である。新聞という活字からテレビという電波を経てインターネット、SNSとメディアが多様化しても「書く」と「読む」「見る」は人間が「知る」ことの礎である。

 私も新人記者の頃は2Bの鉛筆でザラ紙に原稿を書いていた。以来「モノ書き」稼業を50年余、いまも「在広島ジャーナリスト」として毎月このコラムを書き綴っているだけに、「一本の鉛筆」には特別に思い入れが強い。

 「一本の鉛筆」は、あの美空ひばりが歌っていた。オリジナル曲だけ500曲を超すひばりの歌の中では、珍しく「反戦歌」として残る。

 「一本の鉛筆」には物語がある。民放局・広島テレビは原子爆弾の惨禍から30年が経とうとしていた夏、1974年8月9日に「第一回広島平和音楽祭」を開催した。ただ、参加する歌手達に対し、高いハードルを課した。「人間愛か平和をテーマに新曲を歌ってほしい」という条件を付けたのだ。当時すでに「歌謡界の女王」として君臨していた美空ひばりも例外ではなく、条件付きの出演要請だった。5歳の時、横浜で空襲を受けた経験があるひばりは平和音楽祭の理念に賛同し、出演を快諾してくれた。幼児の時の戦争体験がそうさせたのかもしれない。ひばりの恩師で音楽界の重鎮、作曲家・古賀政男らの働きかけもあってのことだったろう。ほかには指揮者として團伊玖磨、いずみたく、歌手はフランク永井、ペギー葉山、由紀さおり、菅原洋一、森山良子等、超豪華メンバーがそろって出演した。

 「一本の鉛筆」はこの音楽祭のために書きおろされた。映画監督の松山善三が作詞、作曲・編曲は佐藤勝、監修・古賀政男である。テーマは重く、深いが、強いメッセージを放つ曲だ。音楽祭は当時冷房もない県立体育館で開催された。氷柱と扇風機で「少しでも涼しく」とスタッフが気遣ったら、ひばりは「あの日の広島はもっと暑かったのよね」と返した。詞は前夜までひばりと話し合いながら書き直されたため、本番のステージでは急遽、食堂のビニール製の透明なメニューに詞を挟んで、ひばりは詞を読みながら歌った。ひばりは歌う前に「私は昭12年横浜で生まれました。戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません」と、絞り出すように語りかけた。そして切々と囁くように、時には朗々と訴えるように歌い上げた。

 美空ひばりは昭和が終わった1989年6月24日に亡くなる。しかし、ひばり亡き後、「一本の鉛筆」は多くの歌手によってカバーされてきた。その一人、広島出身でシンガーソングライターの二階堂和美が今年8月4日に広島テレビの夕方ワイド番組「テレビ派」に出演、原爆慰霊碑に近い「おりづるタワー」の特設スタジオから「一本の鉛筆」を歌う。また6日には、漫画『はだしのゲン』の作者・中沢啓治が遺した詩から生まれた「広島 愛の川」も加藤登紀子ら多くの歌手と子ども達で合唱する。

 被爆地広島は年間を通して観光客で賑わう。「8月6日」を挟む夏は特に多い。広島駅新幹線口を出るとすぐ前に広島テレビの瀟洒なビルがある。一階ロビーには市民から募った書体(ピースフォント)で書かれた「一本の鉛筆」の歌碑がある。ボタンを押すと、ひばりの懐かしい声が静かに、ゆったりと流れる。その脇には原爆投下時刻8時15分を示す前衛芸術家オノ・ヨーコの作品「HIROSHIMA AIR CLOCK」もある。立ち寄ってみてはいかがでしょうか。(文中敬称略)

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