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2025年7月17日 (木)

第117話 追悼 長嶋茂雄さん 至近距離で見た「ミスター」秘話

  目の前に「宝物」のサインボールを置いてこの原稿を書いている。「2000!NPB」(日本プロ野球機構)「NIPPON SERIES OFFICIAL BALL」の刻印がある。そこに長嶋さんの手書きで「2000.10-28 優勝 長嶋茂雄 3」とサインがある。20世紀最後の年、ついにON日本シリーズ対決が実現した。長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと王貞治率いる福岡ダイエーホークスの夢の対決だった。ジャイアンツは2連敗の後3連勝、私は10月28日の第6戦を東京ドームで観戦していた。偶然、ファールボールが私の席に飛んできて運よくそれを拾うことができた。その日、長嶋ジャイアンツは日本一に輝いた。

 長嶋監督は2日後の30日昼、「日本一」の報告のために読売新聞社の本社に渡邉恒雄・巨人軍オーナーを訪ねた。その後に銀座でのパレードが控えていた。当時、私は渡邉社長の秘書役だった。長嶋さんはいつものように約束の時間の30分前には到着され、トイレできちんと身だしなみを整えられ、オーナーとの面談に備えていた。その日、オーナーは前のお客との面談が続いていたため、控室で秘書役の私が少しだけお相手をした。2日前にたまたま手にしたファールボールを長嶋さんに見せて「日本一の記念にサインを頂けますでしょうか」とお願いしたら、「ああ、いいですよ」と気軽にサインペンを走らせてくれたのだ。あれから25年、4半世紀が経った。そして「ミスター」は逝った。

 国民的英雄の死にメディアは大特集を組んだ。スポーツ紙はもちろん一般紙も一面で大扱い、社説、コラム、特集で報じた。「号外」も発行された。テレビは「秘蔵映像」を繰り返し流し、往時を偲んだ。米紙ニューヨークタイムズまでが「MR.Baseball NAGASHIMA」を戦後の日本の歩みと掛け合わせて報じた。多くの評伝、解説、哀悼の言葉が語られた。週刊誌、月刊誌は特別号「秘蔵版」を発行、特集が1か月以上も続く異例の展開を見せた。一人の民間人の死に対する報道としては前代未聞と言うしかない。彼が「スーパースター」だったことが改めて再認識させられた。「FACTA」の宮嶋巌編集長から「一般には報じられない角度で至近距離から見た長嶋茂雄を書いてほしい」と頼まれた。多くの報道の隙間を縫う形で、私が実体験した「ミスター」を綴る。

 200434日、長嶋茂雄さんは病魔に倒れた。この日午前9時に長嶋邸に迎えの運転手が到着した。ゆとりを持っての迎えだった。しかし、なかなか長嶋さんは出てこない。当時、長嶋さんは2度目のジャイアンツの監督を勇退しており、この夏のアテネ五輪の「JAPAN」の監督の立場で日程は不規則だった。すでにアジア予選を通過し、本番を待つばかりだった。ただ、長嶋さんは日頃から手帳を持たない人で、日にちや時間の勘違いが時々あった。だから運転手も余裕をもって待機していることが多かった。しかし、10時になっても10時半になっても長嶋さんが姿を現さないため、運転手は11時に長嶋邸に入った。呼びかけても反応がないので寝室まで入ったら、長嶋さんがベッド脇に倒れていた。当時、亜希子夫人は別の場所で病気療養中、長嶋さんは言わば独り暮らしだった。運転手は長嶋さんを担ぎ、車に乗せ、掛かりつけの東京女子医大病院に運び込んだ。「脳梗塞」の診断、かなり危険な状態で緊急手術となった。何とか一命は取りとめたが左脳に拘束があり、言語機能と右半身に麻痺が出る可能性があり、実際そうなった。症状から逆算していつ発症したかは推測できるが、正確には発症からどの程度経っているのかはわからなかった。当時、私はジャイアンツの球団代表で、長嶋さんは巨人軍の終身名誉監督なので、広報対応は巨人軍の広報部が担当することになり、様々な対応に追われた。

 実は私は長嶋さんが病魔に襲われる2日前に2人だけで話し込んでいる。3月2日夕方、東京都内のホテルで「燦燦会」が開かれていた、巨人軍を応援する経済人たちの集まりで、1993年に長嶋さんが二度目の監督に就任する際に結成された会。当時、私は読売新聞社長で、巨人軍の渡邉恒雄オーナーの秘書部長だった。社長から「何かよい会の名前を考えよ」と言われ、長嶋第2期監督の背番号は33だったので、それにちなんで「燦燦会」を提案した。オーナーは「少し難しい字だな」と即決してくれなかったが、「背番号33に繋がるし、太陽が燦々と輝くのは長嶋さんらしくてよいのでは」と説明すると「よし、それでよい」と決まった経緯があった。

 04年の燦燦会では長嶋さんは巨人軍前監督として挨拶した。独特のカタカナを交えた愉快な“長嶋語”のスピーチだった。ただ、当時の私のメモには「長嶋さんらしい明るい話だが、何か話が行きつ戻りつしていたな」と綴っている。会が終わろうとする時、長嶋さんが私に声を掛けて来て「実は困ったことがあります」と深刻な表情だった。控室で二人だけで話し込むことになった。

 「三山さん、アテネ五輪には各球団から二人ずつ選手を出してもらうはご存じですね」「もちろんです。私も実行委員会のメンバーで、日本代表組織員会でも確認し、各球団は全面協力することになってます」「ところがセリーグのA球団(長嶋さんは実名を挙げた)が非協力的で私が希望する選手を出してくれません。三山さんが実行委員会で問題提起するなど何とかしてくれませんかね」「わかりました、早速、動きます」

 アテネ五輪ではそれまでのアマ中心ではなく、プロ選手で最強チームを編成し、五輪発祥の地のアテネで金メダルを目指すことになっていた。しかし、五輪の開催時期がプロ野球の公式戦の最中で、有力選手を五輪に出すと公式戦の戦力ダウンになるため「各球団2人」という縛りを掛けていた。それでもA球団は長嶋監督が希望する選手を出してくれないというのだ。巨人はエースの上原浩治と4番の高橋由伸、広島カープもエースの黒田博樹と足が速くマルチプレーヤーの木村拓也、ダイエーもエースの和田毅と捕手の城島健司、西武もエース松坂大輔と和田一浩外野手、と全面協力だった。しかし、A球団は「公式戦での優勝」に拘わり、有力選手の供出を渋ったのだ。

 私は巨人軍の球団代表になる前から、読売新聞の秘書部長、秘書役として、長嶋さんと渡邉オーナーの連絡役をしていたので、長嶋さんとは何度も話したり、会食を何回も重ねている仲だった。いつも明るく、愉快で、それでいて律儀な長嶋さんだったが、この時ほど憔悴、困憊し切った姿は見たことがなかった。

 それから30数時間後に長嶋さんは病魔で倒れてしまった。もちろん、医学的因果関係があるかどうか、私にはわからない。しかし、専門医に聞いたところ「脳梗塞や心筋梗塞は継続的な心労、極度のストレスが引き金になることがある」と解説してくれた。「ユニホームに日の丸を付けて五輪に参加するということは、かってない興奮と使命の重さを感じる」と語っていた長嶋さんにプレッシャーが覆いかぶさっていたことも一因かもしれない。

 長嶋さんは緊急手術を受けて5日後にはリハビリを開始した。「何が何でもアテネに行くんだ」との強い信念からだった。しかし、長嶋さんが言葉が不自由で右半身に麻痺が残ることが伝わると、球界やスポーツ紙では「長嶋さんにアテネは無理だろう。新しい監督選びを」という話が広がり始めた。その下馬評の一人に選手供出に消極的だった球団の監督経験者も取り沙汰された。これに憤ったのが長嶋さんの長男一茂さん。読売新聞社に渡邉オーナーを訪ね、「父は懸命にリハビリに励んでいます。『アテネへ行く』と頑張っています。そんな時に早々と次期監督の話ですか。父がこのことを知ったらどんな思いをするでしょう」と直訴に及んだ。一茂さんは「渡邉オーナーに二人で会ったのはあの1回きり」と話している。渡邉オーナーは早速、根來泰周コミッショナーに電話で事情を話し、①「長嶋監督」のままでいく②万一、彼がアテネへいけない場合も「中畑清ヘッドが指揮を執り、監督代行はおかない」を確認した。

 しかし、長嶋さんの懸命のリハビリにもかかわらず、担当医は「アテネに行くことは無理。命に係わる」と主張した。長嶋さんは涙を流して「行きたい」と訴えたが、最終的には医師の意見に従い、断念した。アテネ五輪の日本チームベンチには、長嶋監督のユニホームと、「長嶋JAPAN]と印刷され、長嶋さんが左手で「3」と書き込んだ日の丸が掲げられた。日本は銅メダルに終わったが選手たちは「君たちは野球の伝道師だ」という長嶋監督の言葉を胸に刻んで帰国した。 

「長嶋茂雄は野球の星に還りました」(一茂さん)。しかし「4番 サード 長嶋 背番号3」。あのアナウンスは今でも耳に残る。「燃える男」「メイクドラマ」「天覧試合」「スーパーヒーロー」「永久に不滅です」・・・・。

 長嶋さん、あなたへの形容詞、修飾語は数え切れません。あなたの背番号は選手時代の3、監督になっての90、二度目の監督の33、そして永久欠番の3への復帰。そして病に倒れても身体の不自由さを隠そうとせず、見る人に勇気と感動を与えたあなたの勇気ある姿。「あなたの記憶も永久に不滅です」。合掌。

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