第119話 今、あえて考える歴史の「if」。「終戦」への不決断の責任を問う
戦後80年、終戦前半年間の「不決断」を問う
広島テレビ顧問・広島大学特別招聘教授 三山 秀昭(月刊「潮」2025年8月号、特別企画「戦後80年目に語り継ぐ」)
間もなく8.15を迎える。私たちはこの日を「終戦」記念日と呼んでいる。80前戦争に敗れたのに、なぜか「敗戦」ではなく「終戦」と言い続いている。そこにはこんな経緯がある。当時の外務省・安東義良政務局長がこう言い残している。「言葉の遊戯だが、『降伏』の代わりに『終戦』を使った。僕が考え『終戦』で押し通した。『降伏』と言えば軍部を刺激し、国民にも相当の反響があるだろうから事実をごまかそうと思った」。玉音放送も「終戦」の「詔勅」だ。ただ、これは戦時中に「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言いくるめた大本営発表に通じるものがある。この思考パターンにこそ日本が戦争責任を曖昧にしてきた「水源」があると思う。
日本は戦後すぐに連合国軍総司令部(GHQ)の統治下に入り、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯が裁かれた。しかし、それ「勝者、連合国による裁き」であり、東条英機元首相ら開戦責任がもっぱら問われたもので、実は日本は今日まで「戦争責任」を自ら主体的に検証していない。この項では終戦の年の1945年2月のヤルタ会談から半年間に絞り、当時の戦争指導者の「不決断」にフォーカスを当ててみたい。名著「失敗の本質」(中公文庫)では、開戦時やいくつかの戦線での判断ミスが批判されているが、不都合な情報を軽視する「正常性バイアス」や国際情勢全般を俯瞰する大局感の欠如、「撤退の不決断」もまた「開戦責任」と同様に重たい責任だ。ヤルタ会談から終戦に至る時の経過を縦軸に、国際情勢を横軸に、それらをクロスさせ、「半年間の不決断」が沖縄、広島、長崎などに与えた甚大な被害を再検証する。
すべてはヤルタ会談の情報握りつぶしから
1945年2月4日から1週間、当時のソ連、今のウクライナ・クリミア半島の保養地ヤルタのリヴァディア宮殿にルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相が集結した。旧ロシア皇帝ニコライ二世の離宮だった小高い丘にそびえる宮殿で、3首脳は黒海を見下ろしながら第二次世界大戦終了後の「獅子の分け前」を語り合った。この時点ではドイツも日本もまだ徹底抗戦中だ。ドイツ降伏前に米英ソ仏で戦後のドイツの分割統治を語っているのだから、いかに戦況が確定的だったかを物語る。戦後の国際秩序確立のため「国際連合」の創設まで話し合ったというから驚くほかない。
日本に対しては「ドイツ降伏後3か月以内にソ連が対日参戦し、サハリン(南樺太)、千島列島、北方領土をソ連に割譲する」との手形が切られている。スターリンは釧路と留萌以北の北海道も要求したが、さすがにルーズベルトはそれを拒否した。
超大国3首脳が大量のスタッフを連れて日本から見れば中立国のソ連・ヤルタで1週間も会談したことに日本は全く気が付かなかったのか。この時の「小野寺電報」が語り草だ。中立国スウェーデンで陸軍武官として駐在していた小野寺信(元陸軍少将)は「ドイツ降伏3カ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦する」という極秘情報をつかみ、本国・陸軍中央部に打電していた。しかし、なぜかその電文は残されていない。「大本営作戦課で握りつぶされたようだ」(元大本営参謀・堀栄三氏)。当時、「ソ連が対日政策を変えたようだ」という趣旨の情報は、スイスやポルトガルの駐在武官からも伝えられ、ドイツ駐在の大島浩大使も「『ヤルタ会議の結果、ロシアが適当な時期に対日参戦する』との独外相の伝言を本省の政務局長に電話した」と語っている。戦時中の日本として中立条約を結ぶソ連は外交の中核であるはずが、「ソ連が米英に寝返るかもしれない」との情報を「握りつぶした」とすれば、その責任は極めて大だ。「不都合なことは無視、軽視する」するという「正常性バイアス」は終戦までの過程で何度も何度も嵌った落とし穴だった。「情報が真剣に対応されていれば・・」とifを考えざるを得ない。
首都・東京の大空襲と沖縄戦
ヤルタ会談から1か月、3月10日、米軍は東京下町を中心にB29による大量無差別の焼夷弾爆撃を敢行した。一晩で罹災者は100万人以上、死者は10万人にも達した。この死者10人という数字は長崎原爆(原爆投下から年末までに7万4千人)の死者数を上回っていることに留意すべきだ。前年から主要都市への空襲は続き、政府は皇居への攻撃も懸念し、当時の明仁親王(現上皇)を奥日光へ避難させていたほどだ。しかし、首都・東京が大空襲で甚大な被害を受け、後に天皇になる明仁親王を疎開させていた状況下でも軍中枢からは和平→終戦の声が上がらなかった。
一方、沖縄では3月末に米軍が上陸、地上戦が6月末まで続き、沖縄県民の4人に1人が犠牲になる悲惨な結果になった。日本軍中枢には「沖縄は本土決戦までの時間稼ぎ」という「沖縄捨て石作戦」という考えがあっただけに、今も沖縄人には「東京大空襲で降伏を決断していたなら、沖縄は犠牲にならなかった」という気持ちが強い。海軍は一応、戦艦「大和」を沖縄に向かわせたが、制空権がほどんどない中、鹿児島県坊ノ岬沖で撃沈され、乗組員3332人のうち3056人が散った。当時の指揮官の一人は「一億総特攻だ」と命令したが、「統率の外道」というほかない。
ソ連、中立条約不延長通告の意味の解釈
4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使に「中立条約は来年延長しない」と通告した。日ソ中立条約は1941年4月から期間5年の条約で、延長しない場合は1年前に通告することになっていた。ソ連は規定通りの手続きを踏んだのだが、それが意味する政治的意図は余りに大きい。誰の目にも「縁切り宣言」であることは明らかだ。それでも「条約破棄ではない。残り1年は有効だ」と受け止め、「ソ連の仲介で米英との和平に持ち込もう」という動きが政府内にあった。「不都合なことも都合よく解釈したがる」ご都合主義だ。戦後、私たちは「ソ連が中立条約を一方的に破って対日参戦した」と教えられたが、予兆は十分にあったのだ。
終戦へ向けた鈴木貫太郎内閣だったが・・。
4月7日、小磯國昭内閣が総辞職、鈴木貫太郎内閣が後を継いだ。戦争中の首相は開戦時の東條英機が陸軍大臣を兼務し、次の小磯は陸軍大将、朝鮮総督経験者で、いずれも軍人出身、これに対して鈴木は天皇の侍従長を7年務めた側近中の側近で、天皇の信頼は絶大だった。枢密院議長を経て天皇の強い要望で首相に就任した。「天皇の御心を受けた、和平へ向けた内閣」だった。しかし、鈴木首相や東郷茂徳外相が和平路線なのに対し、「徹底抗戦」を条件に内閣入りした阿南惟幾陸相の抵抗で内閣は機能不全が続いた。
この間、米国ではルーズベルト大統領が死去、憲法の規定でトルーマン副大統領が大統領に就任したが、選挙の洗礼を受けていない大統領は軍にも議会にも弱かった。一方、欧州戦線ではドイツのヒトラーが自殺、5月8日ついにドイツが降伏した。日独伊三国同盟のイタリアは前年秋に早々と降伏していた。「ドイツ降伏」はもちろん日本の戦争指導部にもたらされた。しかし、ここでも「米国にどこかで攻勢をかけ、和睦に持ち込もう」という“一撃講和論”や、この期に及んでも「ソ連の仲介期待」という“小田原評定”が続くばかりだった。
ポツダム宣言「黙視」という愚挙
アメリカは7月16日にニューメキシコ州アラモコードで初めての原爆実験に成功した。そしてトルーマン米大統領とチャーチル英首相、スターリン・ソ連首相は、占領したドイツ・ベルリン郊外のポツダムで巨頭会談を開いた。(7月17日から25日)。トルーマンはスターリンには原爆実験成功を極秘にしたまま、会談を有利に展開、日本に無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を公表した(7月26日)。ただ、この時点ではソ連は対日参戦していないので米英と中国による発表だった。
これに対し日本政府は閣議で「国体護持(天皇制維持)が不明確」「ソ連が署名していない。ソ連の仲介の余地はないのか」などと議論がは右往左往。一方で「拒否すれば米英を刺激する」として「当たらず、触らずの静観」を決め込んだ。さすがにそれでは曖昧過ぎるとして、鈴木首相が記者会見、「ポツダム宣言を重要視しない」を繰り返した。日本の新聞はそれを「黙視」と伝え、米英は「拒否」と受け止めた。
こうして8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連の対日参戦、長崎への原爆投下に繋がる。結局、御前会議(8月9日、10日、14日)での「陛下のご聖断」を待つまで何も決まらなかった。玉音放送(8月15日)前日にも大阪・京橋などでの空襲で無辜の民が非業の死を遂げ、ドイツの降伏後の3か月間だけで全国で60万人もの人命が失われていることに慄然とせざるを得ない。
「歴史にifはない」のか。
歴史に「if」はないのかもしれない。ただ、「終戦に至る半年間の不決断」を素通りしての「検証」は意味をなさず、教訓にもならない。時系列的に見て東京大空襲の時点で日本の戦争指導部が和平に舵を切っていたならば、沖縄、広島、長崎の惨劇はなかった。ドイツ降伏時に日本も降伏していたら、沖縄戦の後半、特に激烈を極めた南部戦線での多数の民間人の犠牲はなかった。さらに7月時点でポツダム宣言を受諾していたら、広島、長崎への原爆投下はなかったし、ソ連参戦を阻止でき、北方領土を奪われることもなかった。米国の核実験成功はポツダム宣言の10日前だが、日本が宣言受諾しておれば米国は「投下」できなかった。結局、日本の不決断が「核の使用」を許してしまったことになる。戦後、米国に続き、ソ英仏中が核開発に成功、今、9か国が保有国だ。一方、朝鮮戦争、キューバ危機、ベトナム戦争では前線で核使用の要求があったが、指導者は3度目の「核投下」には踏み切らなかった。戦後80年、長崎以降、核兵器は一度も使われていないことも認めなければならない事実だ。その正邪は別として「相互確証破壊」は核保有国が最も恐れる論理である。7月の時点での日本がポツダム宣言を受諾していれば、今日でも「地球上に核は存在するが、使われない兵器であり続けたかもしれない」と考えるのは楽観に過ぎるだろうか。
長年、被爆地で定点観測する身として、「8.6の悲惨な被害」の側面だけがフォーカスされ、なぜ、そうなったかの議論が置いてきぼりになっている、と感じる。また、「核廃絶」がスローガンに留まっているいることに「何かが不足している」ともどかしさも感じる。「戦後、被爆80年」、カオス(混沌)を極める世界にあって、歴史観と地球儀と交差させた国際情勢を俯瞰する視点が今こそ求められる。
<太平洋戦争の経緯>
1931.9 満州事変(柳条湖で満鉄爆破)
1932.3.1 満州国建国宣言、国際的対日批判→33年に日本が国際連盟脱退
1937.7 日中戦争(盧溝橋事件)・・→12月首都南京占領。
1939.9.1 ドイツ、ポーランドに侵攻(第2次世界大戦)
1940.9.27 日独伊三国同盟。米国、対日エネルギー制裁
1941.4.13 日ソ中立条約(5年)
12.8 真珠湾攻撃(対米英開戦=太平洋戦争)
1942.6.5~7 ミッドウェー海戦日本惨敗、以後、連戦敗退続く
1943.11.28~12.1テヘラン会談。米、英、ソの首脳が対独戦略
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1945.2.4~11 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)。ドイツ分割やド
イツ降伏3か月後に対日参戦など密約。スウェーデン駐在の日本人武官
がソ連参戦の可能性を打電するも陸軍黙殺。
3.10 東京大空襲(10万人死亡)
3.26~6.23 沖縄戦(80万人中20万人死亡)
4.5 ソ連、日ソ中立条約(46年まで)不延長通告
4.7 小磯國昭内閣→鈴木貫太郎内閣
4.7 戦艦大和撃沈。3056人死亡。
4.12 ルーズベルト死去→トルーマン就任
5.8 ドイツ無条件降伏(ヒットラー自殺=4.30)
7.16 米国、原爆実験に成功(NM州アラモード)
7.17~25 ポツダム会談。
7.26 ポツダム宣言(米、英、中国署名。ソ連署名せず)。日本黙視。
8.6 広島に原爆投下。年末までに14万人死亡。
8.9 ソ連、対日参戦。満州、樺太、北方領土占領、9月5日まで。
長崎に原爆投下。年末までに7万4千人死亡。
8.9 最高戦争指導会議開催。
8.10 御前会議、ポツダム宣言受諾内定
8.14 御前会議、ポツダム宣言正式受諾。中立国通じ連合国に通告。
8.15 敗戦、玉音放送(5月のドイツ降伏後の3か月で60万人死亡)
8.30 マッカーサー厚木に到着、GHQ統治開始。
9.2 東京湾上のミズーリ号で、重光全権が降伏文書に正式調印