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2025年7月17日 (木)

第118話 追悼「ミスター」長嶋茂雄さん余話

長嶋茂雄と広島 

「私はカープファンですが、長嶋さんだけは好き」。広島にはこんな長嶋ファンも多い。そんな誰からも愛された「ミスター」が逝った。私は読売新聞の渡邉恒雄社長、巨人軍オーナーの秘書部長、秘書役として、長嶋茂雄さんが1992年秋に2度目の監督に就任するプロセスからオーナーと監督の連絡役だった。また、長嶋さんがアテネ五輪のJAPANの監督を引き受け、2004年に病魔に倒れた際は、私は巨人の球団代表として長嶋さんとは濃密な関わりを持った。その一端は月刊「FACTA」7月号に「至近距離で見たミスター」として追悼文を書いた。月刊「春秋」からは「長嶋茂雄と広島」について執筆を依頼された。実は長嶋さんとカープは因縁浅からぬ仲なのだ。30年余の長嶋さんとの友誼に立って、「追悼 長嶋茂雄と広島」を綴る。

幻のホームランは対カープ戦

 1958年プロ野球人としてデビューした長嶋は、開幕戦で国鉄の400勝投手金田正一から4打席4三振のプロの洗礼を受ける。ここまではよく知られたエピソードだが、長嶋は「実は翌日の1打席目でも三振したので、私は5三振デビューなのです」と語っていた。その年の919日のこと、後楽園球場での対広島カープ戦5回裏、長嶋はカープの鵜狩道夫投手から左中間スタンドにホームランを打った(はずだった)。これが「幻のホームラン」となる。長嶋は一塁ベースを踏み忘れて2塁に向かい、ダイヤモンドを一周してホームイン。鵜狩投手は新たなボールを一塁手に投げ、審判もベース踏み忘れを見ていてアウトの宣告。長嶋はアクション入りで抗議したが、判定は覆らず、記録は投ゴロ。試合はカープの勝利に終わった、このシーズン、長嶋は打率3割5厘、盗塁37、ホームランは29本で2冠、新人王に輝く。このベース踏み忘れがなければ新人初の「トリプルスリー」の大記録だった。これを「痛い教訓」にサード長嶋は64年と71年に対大洋(今のDena)戦で、相手チーム選手の3塁ベース踏み忘れを見逃さず、アウトにした。「あの時のカープさんのおかげです」は長嶋の弁。 

最下位でも古葉監督と対談

 1974年、長嶋は17年間の現役選手を「わが巨人軍は永久に不滅です」の名スピーチを残して引退した。翌75年に監督になるが、「選手長嶋がいない巨人で、王選手も下り坂」のチームの戦力ダウンは明らかでセリーグ最下位に終わる。この年に優勝したのが古葉竹識監督率いる広島カープ。後楽園球場の対ジャイアンツ戦で優勝を決めた。カープは球団創設以来の初優勝だ。ある新聞がカープ優勝が決まった日に古葉監督と長嶋監督の対談を企画した。「向こうは最下位ですからね。そんな対談、長嶋さんは断るだろうと思ったのですが、どういうわけか受けてくれたんです。こちらは優勝ですから、祝勝会やらいろんな取材が重なり、かなり時間が経っていたんです。さずがに長嶋さんは待っていないだろうと思いながら指定されたホテルに行ったら、彼はいたんです。驚きました。優しいですね。対談では『来年は絶対ウチ(巨人)が優勝しますからね』言われたが、事実、その通りになりました」と古葉さん。翌76年、巨人は広島市民球場でカープを破ってVを決めて胴上げ。前年のリベンジを果たした。2年越しのドラマだ。 

「市民球場まで歩こうよ」

 2度目の長嶋監督時代、巨人は広島ではリーガロイヤルホテルを定宿としていた。市民球場は道路1本挟んですぐ隣、歩いて5分もかからない。ただ、ファンの整理や警備の関係からチーム全員が一緒にバスで移動していた。ところがある日、監督は「すぐそこじゃないか。歩こうよ」と言い出し、歩いての移動となった。警備陣は大変だったが、敵地でもファンを大事にする長嶋監督の考えに従うしかなかった。また、やはり市民球場で雨が降り続き「試合は無理」と判断した監督、さっさと広島駅へ向かい、帰京しようとした。しかし、雨が上がり、試合は可能に。マネージャーが駅までタクシーを飛ばし、監督を連れ戻したこともあったとか。 

名無しのサイン

「カープファンだが熱烈な長嶋ファン」という人が広島にいた。知り合いのカープのフロントを通じて「どうしても長嶋さんのサインを」という無理な注文があった。フロントのスタッフが長嶋監督にお願いしたら「ああ、いいですよ」。長嶋は色紙に「野球というスポーツは人生そのものだ!」と筆を走らせた。ところが後日色紙を受け取ったファンは「あれっ、長嶋さんの名前がない」。長嶋は肝心な自分のサインを忘れてしまったらしい。そのファンは「これはかえって珍しい。宝物だ」と大事に持っているとか。 

「一茂をカープに入れたかった」

 東京6大学のスターだった長嶋は当時ドラフトがなかったこともあり、多くのチームが獲得に動いたが、最終的に長嶋は「巨人」を選んだ。ただ、同じ6大学の立教で活躍した長男一茂のプロ入りについて、父親・長嶋茂雄は「カープに入るのがベスト」と考えていた。しかし、一茂の時はドラフトがあり、ヤクルトに入団した。初期は活躍したが、野村克也監督にはあまり出場の機会を与えられず、二軍暮らしだった。長嶋は2度目の巨人監督に就任した際、「恥ずかしながら、親バカと言われようとも」と巨人に引き取った。長嶋は「一茂はカープみたいな球団で育ててもらうのが一番良かった」と周囲に漏らしていた。

 数々の長嶋語

 少しは知られている話だが、長嶋が立教大学時代、英語の授業で「I live in TOKYO」を過去形にせよ、との問題が出たという。長嶋の答案は「I live in EDO(江戸)」。私はこの話は余りに面白過ぎる作り話だろうと思っていた。しかし、当の英語の先生が東京新聞のコラムに「実話」として書いた。私は新聞のコピーを長嶋さんに見せ「これは本当の話ですか」と聞いた。「エー、まーそんなところで、エヘヘ」。私は調子に乗って「ところで監督は立教では何学部でした?」と失礼を顧みず聞いたら「野球学部でした」。ちなみに長嶋は経済学部経営学科だった。

 選手時代、V旅行でハワイに行った時の話。レストランで川上監督はチキンを頼んだ。王選手は「Me too」と監督に従った、長嶋は「Me three」。アメリカのベロビーチでのキャンプの際、「アメリカの子供たちは英語がうまいね」。東京五輪のコンパニオンだった亜希子さんに猛アタック、デートしているのがスポーツ紙に見つかった。「あの、すみません。私たちにもデモクラシーがありますので???」プライバシーのことらしい。

 監督として松井秀喜選手を徹底的に鍛えた。「マツイ!もっとオーロラを出せ」。オーラのことらしい。ファンから「私は長嶋さんと同い年なんです」と言われ「そうですか?何歳ですか?」。風邪で熱が出た際、スタッフから「熱は?」と聞かれ「378厘です」。監督時代、巨人が優勝の可能性が少なくなった時、スポーツ紙の取材に「ジャンアンツは最後までNever Give up しませんから」。寿司屋で魚の名前が書かれている茶碗を見ながら、「エーッと、魚編にブルーは鯖(サバ)でしたよね」。とにかく、カタカナ英語の達人だった。ユーモアには舌を巻くしかなかった。「ミスター」はどこまでも誰にでも愛され、人を喜ばせ、笑わせる名人だった。

突然の電話

 監督には役目がら私の携帯電話の番号を伝えていたが、ある日、私の自宅に電話が掛かってきた。妻が出た。妻は「長嶋さん? ?どちらの長嶋さんでしょうか?」「ご主人の知り合いの長嶋です」。「あなた・・。長嶋さんという人から電話よ」「バカもん、あの長嶋さんだよ」と受話器をもぎ取った。妻は「ジャイアンツの長嶋さんだったの? まさか家に掛かってくるとは思わないもん」と言い訳した。長嶋さんは人を驚かす名人だった。 

「長嶋さん、あなたの記憶は永遠に不滅です」

「ミスター、あなたは自ら『記憶の長嶋でありたい』と言っていましたね」。「長嶋さん、あなたの記憶は永久に不滅です」。手元には2000年のON日本シリーズを制した際、あなたが、目の前で書いてくれたサインボールがある。「1028 優勝 長嶋茂雄 3」とある。この「宝物」を傍らに合掌。

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