第125話 まだまだ「官」の郵便局
郵便物の不配や放置等「日本郵便」の不祥事が後を絶たない。しかも「過失の場合なら不公表」という。これでは、差出人は郵便物が相手に届いたかどうかわからず不安だ。私も最近、郵便局の「官」体質を実体験した。些事ではあるがレポートする。
9月、私は大分市に住むMさんに電話をかけた。しかし、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」。2年前は同じ番号に電話してアポを取り、自宅まで出向き、1時間以上インタビューして論壇誌に寄稿した。
Mさんは80年前、八幡製鉄(現日本製鉄)の設計技師見習工だった。 8月9日、米軍は広島に続く原子爆弾の投下地点を小倉(現福岡県北九州市)と定め、B29が原爆「ファットマン」を搭載して小倉を目指していた。一方、Mさんは防空情報を受け、製鉄所構内に広く並べられたドラム缶のコールタールに火を着け、空に黒煙を放った。これまで何回か空襲を受けてきた八幡製鉄では何度も訓練してきた「煙幕作戦」だ。それを9日にも実行したのだ。9日の小倉は前日の八幡市街地の大規模空襲によるモヤも流れ上空に広がっていた。
米軍公電資料によれば原爆投下目標地点の小倉は「some haze and heavy smoke」(もやと濃い煙)で「Target was obscured」(目標が見えなかった)。B29は小倉への投下を断念、長崎に転じた。よく「小倉が曇りだったので長崎に」と伝えられるが間違い。長崎の原爆資料館の展示でも「小倉は視界不良だった」とは書かれているが「曇り」の表記はない。Mさんは「自分らが放った黒い煙が煙幕になり、自分らのせいで小倉、八幡は助かったが、長崎の人に大変な迷惑をかけた」と苦悶し続けた。戦後一度も長崎を訪れることはなかった。彼は「歴史の証人」なのだ。ここではそれがテーマではないので、関心がある方は拙書『記事で綴る私の人生ノート』(文藝春秋社)を参照してほしい。Mさんも実名で記載している。
私が9月にMさんに電話したのは追加的に取材したいことがあったためだ。今回も電話でアポを取り、自宅に出向くつもりだった。しかし、電話が通じない。そこで住所がわかっていたので、往復はがきを出した。「往」欄にはMさんの住所氏名と取材依頼の趣旨を書き、「復」欄には私の住所・氏名等を書いて投函した。ところが翌日に「往復はがき」のまま我が家に届いたので「いやに早いな」と思った。ただ、返信には何も書かれていない。よく見ると私宛の「復」欄だけに消印があり、「往」欄にはない。大分に送られるはずのはがきが、先方には向かわずにそのまま返って来たようだ。
私は広島駅前の郵便局に出向き、事情を訴えたが、最初は「何が問題なの?」という対応。私は「往」欄に消印がなく、「復」だけにあることを指摘して、「往復はがきが先方に向かわずに戻されたのではないか」と説明した。窓口の係員は奥の席の上司と相談、上司が私の応対係となった。私は同じことを最初から説明しなければならなかった。
ところが上司は「この局ではなく、別の基幹郵便局で事情を話してほしい」と“たらい回し”にしようとした。私はムカッときたが、カスタマーハラスメントと勘違いされないように、静かな口調で「そちらの配達ミスなのに、こちらがバスに乗って基幹局まで出向くのですか」と再考を求めた。すると上司は電話でどこかと相談、20分ほど待たされた後、「失礼しました。配達ミスですので、ウチで対応します」とのこと。
ただ、「『往』の85円分は後日、基幹郵便局からお客さまに切手が送られます。『復』の85円分はすでに消印が押されてあるため、払い戻し扱いとなり手数料6円が掛かります」との説明。「郵便局がミスを認めたのに、なぜ、こちらが手数料を負担するのか」と疑問に感じた。しかし、「もう面倒だ。時間がもったいない」と考え、手数料6円を差し引いた差額分だけの切手をいただいて引き上げた。あれから1カ月が経過した。しかし、基幹郵便局から「往」の85円分の切手は送られて来ていない。
実に些末な体験だ。ミスは誰でもする。私が指摘したいのは、わずかなはがき代でも手数料負担の問題でもない。事後対応だ。かつて小泉純一郎首相が「政治生命」をかけたはずの「郵政民営化」から20年近くが経った。組織は分離されたがJR(国有鉄道)、NTT(日本電信電話公社)に比べて、「日本郵便」には「官」の意識が根強く残る。「完全民営化はまだまだ」というのが私の率直な感想だ。
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